モニターEさんのセッション9になります。
今回のEさんは、自分自身の思考の「パターン」に気づくことができたようです。
いろいろなことが変化してくるためには、まずは「気づく」ことが大切なのですが、パターンは「無意識に行われているもの」なので、なかなかそれが難しくなります。
ボディワークを受けると、「自分の身体に意識を向けて、現在の状況に自ら気づくこと」ができるように、それを「サポート」してくれるので、気づきが生まれやすく、無意識のパターンも変化しやすいかなと思います。
今回のセッション9を通して、どんなことに気づいたのか、感想を見てみたいと思います。
今日もありがとうございました。以下、感想です。
今日の大きな収穫は、自分のあるパターンが分かったことでした。
私はこれといって問題がない、平穏無事な日が続いても、だんだん心身が疲れてきて、しまいには「なんか何もかもめんどくさい」という気分になってしまいます。
今まさにそういう状態であることをお話した後、なぜ順調な日が続いても落ち込んでしまうのか、改めて考えました。
私は何事もやたら頭でごちゃごちゃ考えてしまうのですが、なぜ考えてしまうのかというと、いろいろなことをきちんと把握してコントロールしようとしているからで、仕事ではこういう癖は役に立っても、日常生活の全てにおいてそれをやろうとするから疲れてしまうのだろうと思います。普通に生活していればコントロールできないことがたくさんあって、それなのにコントロールしようとするからエネルギーを消耗してしまう。
以前ロルフィングは「よけいなことをしないようにするメソッド」じゃないかと書きましたが、精神的にかなりよけいなことをしていたなあと思いました。また、あれこれ考えて精神的に緊張しているせいで身体にも緊張がたまって、毎回ロルフィングが終わると「こんなに緊張してたんだ」とびっくりしていました。
これからはコントロールを手放して、信頼して流れに身を任せてみようかと思いました。
また、上記のようなことに気づくのには、今日のロルフィングのように自分と向き合う時間を持つことが必要だと思います。一人暮しではなくなって、なんだかバタバタしているうちに一日が終わってしまうので、ちょっとその辺工夫したいと思います。
身体の面では、最後右の股関節というか骨盤辺りに違和感があったのを、足裏をちょこっと調整して頂いたらスッキリ違和感が消えてびっくりしました。毎回、問題が現れている部分と一見関係なさそうなところに原因があったりするのが面白いです。
残すところあと一回。以前とは随分身体も考え方も変わりました。コースとしては最後ですが、きちんと心身と付き合う始まりとしての10回だったなあと思います。来週もよろしくお願いします。
自分の力が治す
一見すると、「他人の力によって変えてもらった」と感じている出来事でも、『他人の力によって、「自分に気づくこと」ができて、自分で変わった』というのが、ほとんどではないかと、僕は考えています。
同じように、「痛み」というのも、「ゴッドハンドに治してもらった」や、「すごい腕を持った人から、治療してもらった」と感じる人もいるかと思いますが、厳密には「人が他人から治してもらう」というのは「不可能」で、「自分で治っている」というのが実際に起きていることになります。
元々、人には「自然治癒力(自分で治す力)」という大きな力が備わっていて、それが「適切に働いてくれる条件を整える」ということが、どんな腕の優れた「治療家」でも、「ゴッドハンド」でも、やっていることの全てだと思います。
その「条件の整え方」が素晴らしいのであって、「どこの条件が崩れているのか」という「洞察」が優れていて、「どう整えればいいのか」という「見立て」が良く、「どれくらい整えればいいのか」の「さじ加減(塩梅)」が絶妙なので、触ってもらった人は、さっきまで苦しんでいた痛みから解放されて、「治してもらった」と感じているのです。
しかし、繰り返しになりますが、「自分で治している」というのが事実であって、何か組織が傷んでいたとしても、そこに何かの刺激(手の圧、鍼の刺激、電気、超音波、気などのエネルギー、薬などの物質)が加わって、「治癒のプロセス」を「促進」することはあっても、実際に施術者が「傷んだ組織を修復」しているわけではありません。
「関節を調整してもらったら、嘘のように痛みが消えた」というような場合であっても、「関節の骨の位置を、適切な状態に調整する」ことは、「施術者ができること」になりますが、それによって「挟まれたり、伸ばされて、負荷がかかっていた、神経、血管などの組織が、適切な状態に戻った」というのは、「その人の身体が自然にしたこと」であって、「痛みが消えた」という現象の「直接の原因」は、後者になります。
では、その「自然治癒力が適切に働く条件」は、どんな状態なのかというと、以前の
Eさんのセッション6の時に詳しく書きましたが、「自分の身体の現在地(現在の状況)を把握すること」ということになります。
「熟練した施術者」というのは、「詳細な観察から、正確な場所と角度と深さに、適切な量の刺激を加えることで、自分で自分の現在の状況を認識できるようにサポートして、そこから出てくる反応を元に、また次に何をすべきかを考えられる能力がある人」のことを指すと、僕は理解しています。
ということで、それらの専門家の「腕の差(違い)」は、『自分の現在地を「どれだけ詳細に」把握できるように導いてくれるかどうか』という点に現れてくるということになります。
いつもとは違う状態になるための、気づき
そういったサポートのおかげで、「自分が今していること、感じていること」にうまく気づくことができると、「もうすでに、以前とは同じ状態を取れなくなる」ようになります。
これこそが、「気づきの効用」です。
ここで大切なのは、「以前とは同じ状態を取れなくなること」が、『必ずしも「その人が求めていること(例:痛みの緩和、消失)」と一致するとは限らない』ということです。
「気づく」ことは、「痛い」という「問題」を、「解決」するための「治療」に使われるものではなく、「健全」という状態へと向かう「きっかけ(施術者が与えた刺激に対する、反応)」になります。
「問題を解決」するだけならば、本人の「気づき」がなくても、もっと「効率の良い」方法があるかと思います。(例:痛み止めの注射を打ってもらう)
でも、「問題を問題にしている土壌」というのが存在していて、そこが「本来あるべき理想的な状態(健全)」に戻っていかなければ、またその土壌から「同じような問題」や、「一見すると違うように見えるけれど、根っこは同じ問題」が、生み出され続けるということになります。
そして、その「土壌を構成する要素」というのは、「たくさんの種類が、複雑に絡まり合った」ようになっているので、「一発で、効率良く、最短で解決」というわけにはいかないのです。(どうしても「手間」と「知恵」と「時間」が必要です。)
そのために、「本人の気づき」という「刺激に対する反応」を、地道に「積み重ねる」ことが大切になります。
ここで、日本人として最初の認定ロルファーになられた、偉大な先輩である
幸田良隆さんが、ロルフィングとは違うボディワークの「コンティニュアム」の紹介をされている文章を引用させてもらいたいと思います。
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身体の健全に向かおうとする働きが刺激を受ける様です。
そもそも生きている間じゅう、身体は均衡を見つけようと働いています。日々の生活の中での、ストレスや飲食によって小さく傾く均衡を取りつつ、偏りが続いたり、外敵や事故によって大きく均衡が傾いたものに対しても、病気と呼ぶ均衡回復の働きが起きます。
コンティニュアムは、日常の行動から離れた刺激(動作、呼吸、発声)を身体に与える為、身体の方でも非日常的な反応を示す様です。
身体は常に刺激に反応します。
いつもの刺激を与え続けると、何時も同じ様な答えが返ってきます。良くない刺激が毎日続いていると、その事への身体の答えは、生活習慣病とか言われるものだったりする訳です。
(中略)
コンティニュアムのクラスの参加者さんから多く聞かれる感想の1つに、
『 コンティニュアムは、
人に身体を治してもらうのではなく、
自分でできる所が良い 』
と言ったようなコメントがあります。
コンティニュアムは、身体が常に行なっている働きに参加しつつ、いつもと違った問いかけをするおかげで、身体の発する答えが、いつもと違って現れる感じです。
どんな答えが来るかは予想がつきませんが、少なくとも、いつもの悪い状態を維持する形ではないのです。
コンティニュアムは、治療目的のワークではありませんが、健全へ向かおうとする働きは、私達が生まれ持った性質である事を実感させてくれるワークですね。
「コンティニュアムレポート(1)」からの引用
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「コンティニュアム」に関しての説明ですが、今回のEさんの「パターンに気づくこと」にもつながってくる内容だと思います。
先に書いた、「身体という土壌」が「健全」な状態でないと、何か「刺激(幸田さんの表現をお借りすると、「問いかけ」)」を与えても、「同じような反応(痛み、病気、不調など)」が返ってきてしまいます。
そこに「いつもとは違った問いかけ(施術者が、身体にいろいろな刺激を加える)」と、「いつもとは違った答え(呼吸が大きくなる、身体がゆるむなど)」が身体を通して出てくるようになります。
「どんな答えが来るかは予想がつきませんが、少なくとも、いつもの悪い状態を維持する形ではないのです。」
この「いつもとは違った答え」が「本人の気づき」になって、それによって身体自身(脳)が「自分の現在地(土壌の状態)が詳細に把握できる」ようになり、「少なくとも、いつもの悪い状態を維持する形ではない(もうすでに、以前とは同じ状態を取れなくなる)」状態になり、「健全へ向かう働き(自然治癒力)の流れに乗る」ことができるようになるということです。
今回のEさんの場合も、ロルフィングが、Eさんの身体に対しての「いつもとは違った問い掛け」になり、それによって「いつもとは違った反応(気づき)」が出てきたのだと思います。
この1回の気づきが、「即、全てを解決した」とはならないと思うのですが、この気づきを通して、「なぜ順調な日が続いても落ち込んでしまうのか」という「問題」を、生み出すベースとなっている「土壌」が改善され、「健全」な状態へと戻っていってくれるきっかけになればと思います。
パターンに潜って、健全へと向かう
最近、本や雑誌、テレビなどでよく見かけるようになった言葉に、「マインドフルネス」というものがあります。
僕なりの解釈ですが、『自分が今していること、感じていること、自分がどう存在しているかに、「自覚的」になること』かなと考えています。
Eさんの気づいた「パターン」というのは、「クセ」とも言えるかもしれませんが、それは「自動的(反射的、無意識)に行われていること」で、「自覚的」にはなりにくいことです。
つまり、「パターン」で何かをしている時は、「マインドフルネスから外れた」状態になっているとも考えることができます。
人は生まれてから、様々な刺激に対して「反応」を繰り返してきて、それが「感情」を「育んで」いきます。
いきなり「うれしい」や、「悲しい」などといった「はっきりとした形をした感情」があるわけではなく、生まれたばかりの赤ちゃんは、「感情に分化する前の、もっと曖昧とした情動」を持っています。
未分化である「情動」が、様々な「刺激」を受けて、それに対しての「反応」が、ある一定量の「かさ」にまで達し、まとまった「形」になってくると、「感情」になるというプロセスです。
そう考えると、「感情」というのは、「パターン化によって出てきたもの」ということになります。
「マインドフルネス」や「瞑想(座禅)」、そしていろいろな「ボディワーク」を受けていくと、「自分が幼かった頃の記憶」が浮かび上がってくるという体験をすることがありますが、それは「パターン化された感情を、そのまま流さずに、そこに留まって丁寧に感じていくと、そのパターンが形になってくるまでのプロセスを逆に辿っていくことになり、最終的には子どもの頃の原体験にまで行き着く」ということが起きたからと考えられます。
「パターンにまでなっていること」は、それだけ自分が「何度も何度も反応を繰り返してきたこと」でもあり、その人にとって『「何か意味のあること」を含んでいる可能性』があります。
その「パターンの解体」をしていくと、「プロセスのルーツになっている原体験まで遡ること」ができて、「何か意味のあること」も明らかになって、そこからまた「新しいプロセスとして、経験し直す(やり直す)」ことができるようになるのです。
「パターン」ができてくること自体は「悪い」ことではなく、それは自然なことで、そうやって「感情」はもちろん、「言語」、「動作」なども、「何も考えなくても、自動的に行うことができる(パターン化)」をしていくのですが、一度「パターンの構築」が起こると、「パターンの解体」がとても困難になってしまうのが難しいところです。(「クセ」はなかなか抜けないから、「クセ」だということです。)
そして、その「パターンの固定(膠着)」が、「自分にとって心地よくない状況」を招くことがあり、Eさんの場合だと、「順調な日が続いても落ち込んでしまうこと」として現れています。
そういった固定してしまったパターンを、「壊して(解体して)、再構築する(書き換える)プロセス」に乗せていくには、「今、まさに起こっている、身体の感覚に留まり、それを丁寧に観察してみる」ことが大切になってくるのです。
「身体の感覚」は、「今」にあります。(未来にも、過去にも「感覚」はありません。)
その「今」に「留まり」、時間をかけて観察していると、次第に何かが「開かれて」きたり、「流れて」きたりしてきて、「(固定していた)パターンの中に潜る」ことが可能になります。
あとは、安心してその「流れに身を任せて」いると、すでに書いた「パターンの書き換えのプロセス」が起こってきて、「(パターンに囚われない)いつもとは違った反応」をする自分に気づくようになるかもしれません。(一旦、パターンの中に潜って、流れに乗ることができたら、あとは自動的に進んでいくので、コントロールする必要はなく、ただ見守るだけで大丈夫です。それが「自然治癒力、自己調整能力(健全に向かう働き)の流れ」です。)
そのためには、Eさんの感想のように、「自分と向き合う時間を持つことが必要」なのだと、僕も思います。
「マインドフルネス」という言葉を頻繁に目にするようになった背景には、「自分と向き合う時間を持つこともなく、常に何かに忙しく、今、まさに生まれてくる(身体の)感覚から離れ、過去に起きたことや、今から起きるかもしれないことに支配され、感じることを忘れて、いろいろなことをパターンで処理するようになってしまった現代」という問題があるのかもしれません。
Eさんも残り1回となりましたが、「マインドフルネス」な状態で、いろいろな「気づき」を得て、それによって「健全へと向かう働き(または、自然治癒力)の流れ」に乗れるようにサポートできたらと思います。
次のセッション10も楽しみにしています。
Yuta
( Posted at:2017年8月 4日 )
モニターCさんも「統合のセッション」である、9回目に入りました。
いろいろな変化を感じてもらっていますが、これらの変化は「意図したものではない」というのがおもしろいところです。
あくまで「重力空間において、身体の構造が適切な状態になるように」と、ロルフィングをしてきただけであって、これらは「その結果として」自然に出てきた変化で、「狙った」ものでも、「予想していた」ものでもありません。
なので、感想を見てみて、「おお、そんなところも変化してきたのか」と、ロルファーの僕が驚いています。笑
それでは、Cさんのセッション9の感想を見てみましょう。
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9回目
下半身、統合
前回のセッションから変化あったこと
いきなり就寝時ふくらはぎが両足ともつったこと
これはけっこう私としては珍しいことなので不思議に思っていました
嬉しいことに姿勢のまっすぐが継続中
くびれも継続中
おしりも扁平ではなくなり厚みが出て私としては嬉しい
いつもジムで会っている友達に一週間ぶりに会ったら『なんかスッキリしてる!!』と言われました
体重は減ってないしどちらかというと微妙に増えているのにやたら痩せた?と聞かれることが増えました
そしてストレッチして気づいたのは股関節が柔らかく広がり易くなっている
以前は体重を毎日測りアプリに入力して管理するほどだったのにロルフィングをはじめてから月に一度測るだけ
もう見た目でオッケーなら数字は関係ないでしょ!!と思っています
いろんな縛りを持つことから解放されつつあるのかも
セッションが始まり大友さんが私の周りを移動するとまるで砂鉄が磁石に寄っていくように体の粒子が大友さんに向かってざわざわ~と流れていくのが回を重ねる毎に感じました
今回は特にそれが強くてそう思っているうちに初回で体験して以来の回転
初回と違うのはゆっくりゆっくり回転したこと
ベッドから降りて立つとまっすぐだけどズーンと重さを感じました
大友さんに言われた通りしばらく歩いていくとその重みは消えて軽くなりました
いよいよ次回で最後
さみしい感じです
じわじわと追い詰められてきた「ねじれのエネルギー」
身体の中には、構造の「ねじれ(歪み、撓み)」を引き起こす「エネルギー」というのが存在していて、それがどこかに「停滞」してしまうと、そこの部分の構造は「ねじれて」しまいます。
もしも身体にねじれがあるとしたら、そのエネルギーの「解放(放出)」をしてあげないと、無理矢理に力でねじれを取り去ったとしても、すぐにまた元に戻ってしまうのです。
ロルフィングの10回のセッションを受けていくと、「ねじれのエネルギー」は居場所を失い、場所を「(転々と)移動」していって、最終的には身体から「抜けていく」ように、10シリーズの「順序」は「デザイン」されています。
その移動する際には、エネルギーの量は次第に「減少」していき、ねじれも「薄く(目立たなく)」なっていきます。
今回のCさんの場合は、それが「ふくらはぎ」に「追いやられて」きたようで、そこに症状が現れてきています。
「統合のセッション」まで身体が統合されてくると、「中心(コア)はすっきりしていて、末端(手足)に追い込まれる」状態になってくるので、まさにそれが起きてきたと考えられます。
「つる」という症状が出ていますが、「末端まで追い込まれたエネルギー」というのは、大分「勢力を失っている」状態なので、そこに対して適切にアプローチしてあげると、比較的簡単に身体から抜けていってくれます。(実際に、セッション9の後の状態を確認してみると、その後「つる」ことはなかったようです。)
他の感想の部分を見てみても、「中心はすっきり」してきているので、「姿勢がまっすぐ」していて、「くびれ」や「おしり」などの、身体の「フォルム」もきれいに出てきているようでよかったです。
あと1回セッションがありますが、残りのねじれのエネルギーが、きれいに身体から抜けていってくれるように、ロルフィングできたらと思います。
身体がニュートラルになると、思考も変わる
感想の中に、「いろんな縛りを持つことから解放されつつあるのかも」という言葉があります。
「身体の縛り(ねじれのエネルギー)」が抜けてくると、「考え方(または生き方)の縛り」も解放されてくる人がいるのですが、Cさんの場合もそれが起きてきているのかもしれません。
身体が「ニュートラルな状態」になってくることで、「考え方」も「偏りがなく、自由な状態」に変化してくる可能性があります。
確かに僕自身、ロルフィングを受け始めてから、「縛り(またはこだわり)を持たなくなる」ようになってきたなと感じます。
「考え方の縛り(偏り、制限)」を解放しようと努力しても、なかなかうまくいかない時もありますが、「身体の構造をニュートラルにする」という方向性も有効ではないかなと思います。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉が示すように、「実際に触れることのできる身体」へのアプローチを、ロルフィングでは大切にしています。
身体を「粒子の集まり」だと考えてみると
「砂鉄が磁石に寄っていくように体の粒子が大友さんに向かってざわざわ~と流れていく」
身体が「粒子の集まり」だと考えてみると、また身体が変わって見えてきます。(「身体とは何か?」の「モデル」が変わると、「見え方」も変わってきます。)
その「粒子の大きさ」が変わると、身体の「動きの質感」はどうなるでしょうか。
もしも身体を構成する粒子が、「岩」のように大きくゴツゴツしたものなのか、「石ころ」くらいなのか、「砂」のような細かくさらさらとしたものなのかと、イメージを変えてみるだけでも、歩くというシンプルな動作の質や感覚が変わります。
「ロルフィングを受ける前」の身体というのは、粒子が「大きく、荒く、重い」ような感じがします。そのような身体の歩き方を観察してみると、「岩のように固まった」部分が多く、動きが「硬く、ギクシャクして」見えたりします。
それが、ロルフィングを受けていくことで、粒子が「きめ細やかく、滑らかで、さらさらと軽い」ような感じになっていきます。
そのような身体になると、「粒子の移動が容易(スムーズ)」になるので、そんなに大きな力を加えなくても、身体の状態が変わってくれるようになります。つまり、より「微細なタッチ」によっても、身体が反応してくれるようになり、ほとんど力を加えなくても、「固まっていた組織がゆるみやすく」なったり、「可動域が大きく広がる」ということが起こるようになります。
さらに、粒子が「細かく」なるということは、「粒子が振動しやすく」なることも意味しています。ある粒子が振動すると、それが周りの粒子に伝わり、さらにそれがその周りの粒子にも波が伝わっていって、「粒子の振動の波の波紋」が広がっていきます。
ロルフィングのセッション中に、足首を軽く触れているだけなのに、脊柱が反応してきて、すーっと伸びるような感覚があることがありますが、それはこの「粒子の振動の波」をイメージしてもらったらいいかと思います。
頭を触れているのに、内臓が動き始めたり、肩甲骨の辺りに手が置かれてあるのに、反対側の大腿がゆるんできたり、ロルフィングでは「離れた場所(もしくは全身)が変化する」ということが起きますが、身体を構成する粒子が「(可能な限り)細かく」なり、「粒子の振動の波」が伝わりやすくなることが、それを可能にさせます。
こういった「粒子が細かくなること」を、「身体を割る」と表現することがあります。
下に紹介させていただく文章は、僕が神戸にいる時に、社会人ゼミ生として多くのことを学ばせていただいた、神戸の凱風館の館長である「内田樹」先生の『私の身体は頭がいい』という著書の「響く身体」という部分からの引用になります。
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「響き」というのは、「割れる」ことでしか発生しない。静止したソリッドな単体からは何の響きも生まれない。
(中略)
そのためには「割れ」なければならない。限りなく細かく割って割って微細な粒子になるまで、身体を割らなければならない。「割る」というのは、同時に微細な震動を発することである。「割れ」が細かければ細かいほど、発される震動音は深みを増し、厚みを加え、肌理が立ってくる。同時に、「割れ」が細かければ細かいほど、聴き取りの感度はよくなり、聴き取られる音の数や種類は増える。
(中略)
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。無限に割って、微粒子にまで割る。それが調和を到成するということである。哲学も舞楽も武道も、その帰する所はおそらく一つである。
ーーーーーーーー
身体を「割る」、身体が「響く」、身体は「整う」
ロルフィングが10シリーズを通して達成しようとしていることも、この「身体を割るプロセス」なのではないかなと思っています。
「身体が微細に割れてくる」ことで、「響きやすい身体」になります。
動作は「滑らかで、軽やか」なり、エネルギーは「コヒーレント(細かな粒子が、密度の濃淡の偏りがなく、均一に分布されていて、波が伝わりやすい状態)に伝わり、スムーズに通りやすく」なります。
「ごくわずかな入力にも反応できるほどに精密で繊細な構え」
内田先生は合気道の先生でもあるのですが、「身体を割ることの効用」を上のような言葉で表現されています。
ロルフィングの場合でも、わずかなこちらの「出力(タッチによる刺激)」にも、受け手の身体が「反応」してくれるようになり、タッチは「よりシンプルで、透明なもの」になっていきます。
Cさんが書いてくださっているように、「砂鉄」のように細かくなると、「手を触れない、エネルギーワーク」にも反応しやすくなり、まさに「磁石に寄っていくように」に身体の粒子の「移動」を感じたり、「粒子が均一に整列」するような「振動」を感じたりもします。
この動画では、砂をスピーカーの上に置いて、様々な「周波数の音」を出していくと、それに応じて砂が「幾何学的な模様」を作り出す様子を紹介しています。
これを身体に置き換えてみると、「身体が微細に割れる(きめ細かな砂)」と、「純粋な意図も持ったタッチ(特定の周波数の音)」にも反応して、勝手に「構造的なバランスが整う(きれいな均整の取れた模様、パターン)」ということが起きます。
まずはそのためには、繰り返しになりますが、「身体を構成する粒子が細かい」ということが大前提で、それには「物理的な圧を、持続的に加えるタッチ」が効果的な時もあり、それが「ロルフィングの伝統的なスタイル」にもなります。(「クラシカルな」ロルフィングは、圧をしっかりと加えてワークをします。)
そうやって身体が割れてくると、「粒子の密度の偏った分布」が起きることもあり、例えば、右腰の辺りに粒子が「濃く」偏っていて、そのために「動きが少ない(滞っている)」状態になる一方で、他の部分は「薄く」分布しているために、粒子が「動きやすい」状態になり、「コントラスト」が生じることになります。
そしてそれが、右腰が張りやすいなどの「症状の要因」になることもあります。
同じように「右腰が張りやすい」という症状があったとしても、「粒子は細かいけど、それが右腰の部分に集まり過ぎて、停滞してしまって動きがない」という状態なのか、「粒子が岩のように大きく、ちょうど岩と岩の切れ目の部分に右腰があって、そこに負荷が抜けていきやすい」という状態なのかだと、「ロルファーがすべきこと」は全くちがってきます。
前者であれば、「エネルギーワーク」などのように、「粒子を振動させて、一様に均す」ことが効果的でしょうし、後者であれば、「クラシカルなロルフィング(組織に対する、持続的な圧を加えたワーク)」によって、「粒子を細かくする」ことが効率的なように思えます。
上の動画は、100万個の粒子が動いている様子ですが、最初は「均一に」分布していたのが、粒子が集まって「濃く」なり、そこに「形のようなもの」が浮かび上がってきては、それがまた「まばら」になってというのを繰り返しています。
もしもこの粒子が「濃く集まった」状態が長く続き、「動きが停滞し、さらに動きが限りなく少なくなる」と、それは「固体(ソリッドなもの)」のようにふるまいます。(「気体」から「固体」への「状態変化」のようです。)
◯すこやかで健全な赤ちゃん
粒子の大きさ:微粒子レベルに細かい
粒子の移動:自由に動き、流動的
身体の柔らかさ:とても柔らかい
◯何か身体に不調を抱えた大人
粒子の大きさ:岩のように大きい
粒子の移動:ほとんど移動はない
身体の柔らかさ:硬い
上に少しまとめてみましたが、元々赤ちゃんの頃は、粒子が「細かく」、それらは「自由に動き回ること」ができるので、まるで動物のように「しなやかな(流動体のような)」身体をしているのですが、それが大人になって、どこかが痛いなどの「症状」が出てくる身体というのは、「固体的な」身体のふるまいをするようになるということになります。
ロルフィングを受けて、「身体が軽くなった」という感想をもらうことがありますが、それは身体が「固体から気体へ」と、身体の「粒子が細かくなり、自由度が増したから」という説明もできるかと思います。
この世界が、「粒子の循環」だと考えてみると
ここまでで、身体は「粒子の集まり」だと考えてみて、それが「状態変化」をすることがあり、ロルフィングでは、「固体」のように「硬く、動きを失った」身体ではなく、「気体」のように「自由な動き」がある状態を目指していると説明してきました。(そして、そのためには「身体を割る」ことが大切になります。)
そして最後になりますが、「身体という枠」を超えて、僕らが存在しているこの世界そのものも、「粒子の集まり」であって、その「粒子の循環」が起こす「ひとときの姿」だということまで書きたいと思います。
そのために、僕が何年も読み続けている、シュタイナー教育と野口整体の実践者でもある「山上亮」さんの『
雑念する「からだ」』というブログの文章を紹介したいと思います。
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私たちのからだは、いろんな物質がつねに通り抜けている。
私たちは日ごろ、あまり変化の少ないからだに見慣れているので、当たり前のようにそこにからだが存在しているかのように思っているが、 からだ中の細胞はおよそ7年ですべて入れ替わると言われている。
全部の細胞が入れ替わるかどうかは諸説さまざまであるようだが、 多かれ少なかれほとんどすべての細胞が入れ替わっていることは事実のようである。
もっともひんぱんに入れ替わっているのは、皮膚、胃、腸などで、3、4日ですべて新しい細胞に入れ替わり、 目の角膜なども約1週間で入れ替わる。
赤血球は平均125日で入れ替わり、また肺、肝臓、すい臓、脾臓といった臓器の細胞は400~500日で入れ替わるそうである。
比較的ゆっくりと入れ替わるのは、骨で約5年、筋肉は約7年かかると言われている。
銀河系の星の数より膨大な量の細胞をもつ人間のからだの中では、1分間に2億個の細胞が生まれ、また死んでいる。
私たちのからだは絶えず生まれ替わっている。
7年も経てば、私たちは物質的にはまったくの別人なのである。
先ほど述べた地球大循環の話も含めて考えてみれば、私という人間はいったいどこまで個人であると言えるのだろう?
私があなたで、あなたが君で、彼と彼女と、ボクと...、君?と?私は...、彼?と、あなた?
...え~と、あなたは一体誰ですか? 私も一体誰でしょう?
たまたま「今」「ここ」に「私」として現象している、モノやコトたちの一瞬の出会いときらめきを、私は「私」と感じているけれど、 つねにいろんなモノがやってきてはまた世界へと帰ってゆく、「通り抜けられるこのからだ」というものが、まるで「がらんどう」 のようにも思えてくる。
「からだは波なんですよ」とは、私がつねづね講座でもくり返していることだけれども、それはからだも波も、ともにこのような 「通り抜け」の現象だからである。
(中略)
つまり、絶えず細胞が入れ替わりながら、7年ですべて入れ替わったとしても、「私」という人間のカタチを保ち続ける肉体。
「形態はとどまり、物質(細胞)は通り抜けている」
私たちのからだは、つかのま物質同士が寄り添って形作っている「現象」であって、 形作っている物質自体は形態だけを次世代(細胞)へと引き継ぎ、やがて再び物質循環の生態系へと帰ってゆく。
物質をともなう肉体はあまりに「硬い」ので、「実在」であることをまったく疑うこともなく確信しきっているが、 時間軸の流れをちょっと早くしてみれば、たちまち『絶えず生起し続ける「現象」』としての面が浮かび上がってくる。
それは固体であるかのように見えるガラスが、 実は何千年もかけて重力に従ってゆるやかに「零れ落ちてゆく」液体であることにも似ている。
ガラスがあまりにも長大な時間軸を具えているので、私たちの目には零れ落ち続けるガラスが、 まるで止まっているかのように見えるだけである。
(『雑念する「からだ」』、「からだは波だと私が思うのも...」からの引用)
この文章にもあるように、私たちの身体は「物質で、ソリッドな固体」と確信していますが、それは私たちの生きている時間軸の中での感覚であって、宇宙の時間軸で「一人の人間の一生」を見てみると、「ほんの一瞬の出来事(現象)」でしかありません。
それが仮に70億の人がいたとしても、『絶えず生起し続ける「現象」』には変わりなく、それは人間のたくさんの細胞が、「生成されては消えていく現象」と同じようなものに、僕には思えてきます。
続いては、同じく山上亮さんのブログからの引用なのですが、さらにその中で「福岡伸一」さんの著書『もう牛を食べても安心か』の引用をされています。(ややこしくてすいません。笑)
福岡さんは『
動的平衡』や『
生物と無生物のあいだ』という本も書かれていて、テレビなどでも見かけることもある科学者の方です。(米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授、ロックフェラー大学客員教授などもされてきた一流の科学者です。)
(山上さん)
私たちのからだは環境と一繋がりの物質循環の流れの中にあり、「私」という現象は、 その流れの中で物質がたまたま一瞬とどまり密度が高まった、いわば分子のゆるい「淀み」でしかない、と筆者(ここでは福岡さんのこと)は言う。
(福岡さん)
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、 分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ換わっている。 この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと、出ていくタンパク質との収支が合わなくなる。 それがタンパク質を食べ続けなければならない理由なのである。
(山上さん)
「物質」が通り抜け、「情報」が通り抜け、それらが通り抜けるいっときにおぼろげながら浮かび上がる「私」という現象。
私の中を巨大な流れが通り抜け続け、またその巨大な流れ自体の一部である私。
(『雑念する「からだ」』、「たべるのむみるしゃべる.」からの引用)
この世界は、細かな物質(粒子)が漂っていて、それが絶え間なく循環している。そして、その粒子の密度が高まっているところ、つまり『ゆるい「淀み」』として、この「身体」が存在している。(そして、それは他の物質でもそうであるということ。)
「身体の外側の輪郭と、空気(環境)との境界が曖昧になりました」
こういった感想を言ってもらうこともあります。身体の皮膚の部分が、「空中に滲んでいく(溶け出していく)」感覚で、ロルフィングのセッションだけでなく、他のボディワークや、瞑想中でも感じられることがあります。
言葉だけを聞くと、「何を言っているんだろう?」という感じだと思いますが、「身体は粒子の集まりで、それがもっと大きな流れの中で循環している現象」だと考えてみると、その感覚もあり得るものと感じられてきます。
最後になりますが、それを「ビジュアライゼーション(視覚化)」している動画がありますので、それを最後に観ていただいて、今回のCさんのセッション9の解説を終えたいと思います。(動画は、2:00過ぎくらいから再生してみてください。)
「思考」はすぐに「固定」してしまいがちになりますが、それを一度「自由」にしてみるきっかけになればうれしいです。
( Posted at:2017年7月29日 )
少し間が空きましたが、モニターAさんのセッション9になります。
Aさんの感想の際には、毎回そのセッションの「概要」を説明してから、感想についての解説をしていますので、今回もその流れでいきたいと思います。
今回は、「シンボルとロルフィング」について説明をしてみます。
心を震わせる「アート」のような、そんなロルフィングができたら
僕がロルフィングを受けたきっかけは、神戸の整形外科でトレーナーとして働いていた時に、アメリカでATC(アメリカのトレーナー資格で、準医療資格)として活動されていて、そこからロルファーになられた
佐藤博紀さん(ヒロさん)との出会いでした。
その頃の僕は、ヨガを定期的に受けていたので、「人に触れられて、身体を整えられる」よりは、「自分で動いて整える」ことに重きを置いていて、マッサージなどを受けるという機会はありませんでした。
むしろ、「変な触られ方をして、それで身体が崩れてしまったらどうしよう」という不安の方が大きく、よっぽどのことがない限り、知り合いのトレーナー、治療家、理学療法士にも触ってもらうことは避けていたほどでした。
それでも、なぜかヒロさんのロルフィングセッションは、すぐに「受けてみようかな」と思ったのが不思議でした。(今考えると、何か大きな流れに導かれていたような感じがします。)
実際に受けてみると、ベッドに横になり、手で触れられているだけなのに、なぜかヨガをしている時のように、身体が「内側から変化」してきているのがわかったり、ヨガの先生の動きを見て、「あんな動きができたら気持ちいいだろうな」と思っていた動きが、「あ、今ならできるかも」と、なぜかベッドに寝ている状態でもそう感じました。
セッションが終わって、ベッドから降りて立つと、「とても質の高いヨガを受けた後」のような身体になっていて、足の裏は地面に開かれていて、軸がすーっと上に伸びていくような感覚があり、すごく感動しました。
それからロルフィングを学ぼうと、アメリカのボルダーに渡ったのですが、その授業の中で、素晴らしい先生たちのデモンストレーションを見たり、世界中から集まったクラスメイトと、実技の量をたくさんこなしながら、身体の奥深さを学んでいったり、有名なロルファーのセッションを受けていく中で、「ロルフィングはアートだな」と感じるようになっていきました。
だからといって、自分自身は「アーティスト」だと思ったことはないのですが、痛みや不調を取り除いてくれる「治療家」でもないですし、ましてや「ゴッドハンド」でもありません。
けれども、5年間ロルファーとして、人の身体という「小さな自然(宇宙)」と向き合い続けていると、セッションの中で「自然の神秘、宇宙の叡智」に直接触れているような体験をすることがあって、そういう時に「アートってこういうことなのかもな」と直感することがあります。
芸術におけるすべての回答は、
偉大なる自然の中にすべて出ています。
ただ私たちは、その偉大な教科書を、紐解いていくだけなのです。
- アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)
ロルフィングは教科書があるわけではなく、アイダ・ロルフさんが身体を通して見ていた世界(身体という偉大なる自然を紐解いて、そこから掬い上げてきた回答)を、「口伝」で伝えていて、アイダさんから指名を受けた先生たちから、手取り足取り手ほどきを受けて、それを自分の身体に馴染ませていきます。(それはまるで、日本の伝統芸能のようなものでもあります。)
「アート」というのは、ガウディさんの言葉のように、「偉大な自然という教科書を紐解く行為」と考えると、ロルフィングをすることというのは、「身体という自然を注意深く観察し、そこから何かを立ち上がらせる行為」でもあり、そんなロルフィングを受けると、ただ「気持ちがいい(リラックス、癒やし)」というものでもなく、ただ「痛みという問題が、なくなって解決しました(納得)」というものでもなく、「何なんだこれは」と「感動」を呼び起こすものだと、僕は信じています。(まだまだ「感動」を与えるほどのロルファーではありませんが、自分がそう感じたように、他の人にも感じてももらえるように、日々努力しています。)
「シンボルが顕れるようにセッションしましょう」という実技の授業
「ロルフィングはアートだな」と感じた具体的なこととして、「シンボルが顕れる」ことを一つの目標としてセッションをすることがあります。
ロルフィングの授業では、まずは10シリーズの各セッションの「概要」を座学で説明を受けて、それに沿って先生が「デモンストレーション」を見せてくれて、そこで出てきた疑問、質問を「ディスカッション」して、では実際にやってみましょうと「実技」をしていくというのが基本的な流れになります。
そんな中で、今回の「シンボル」の説明もあったのですが、「うまくプロセスが進むと、このシンボルがセッション中に観察できるようになるので、それをデモンストレーションします」と、先生が実際に外部のクライアントさんにロルフィングのワークをしてくれました。
最初の内は、「『身体の構造の中に、シンボルが顕れる』って、何を言ってるんだろう?」と思っていたのですが、先生のデモンストレーションを見ていると、確かに少しずつその「シンボルらしきもの」が目に見えるようになってきたのです。
先に書きましたが、僕は元々、整形外科に勤務していたので、そういった「メディカルな」場所で働くということは、「自分のすること」に、「科学的根拠」があることが大切になります。「なんとなく」であったり、「直感で」というプロセスから導き出されたものではなく、ものすごく「論理的(左脳的)」な視点、コンセプト、アプローチで、人の身体に向き合っていきます。
それでも、自分自身は「完全な左脳タイプの人間」ではなかったので、ロルフィングの先生が説明してくれる、「シンボルが身体に顕れる」というのも、徐々に理解、認識できるようになりました。
「さあ、それでは実際にクライアントさんの身体に、求めているシンボルが顕れてくるようにロルフィングしましょう」と、先生が実技の際に言うのですが、「メディカルな」人にとっては、「え、それってどういうこと?具体的に、何をどうするの?」と、困り果ててしまうと思います。
「シンボル」の効用
「では、『シンボル』とはどういうものか?」というと、運動やスポーツを教わっている時の、「〇〇のイメージで動いてみましょう」の「イメージ」に少し近いかなと思います。みなさんも、そう指導された(または指導した)経験があるかと思います。
「自分がその通りにできている」と、他の人の動きを見ても、それがその人の中で「再現されているかどうか」が、見てわかるようになります。
いくつかそういった「運動イメージ」を載せてみますので、「はいはい、なんとなくそのイメージわかる」なのか、「ん、何をしているのか全然わかんない」なのか感じてみてください。(これらの図は、「フランクリンメソッド」というボディワークの団体が作っているイメージです。すごくよく表現されていて、今回使わせてもらいました。)
この図は、「ペルビックリフト」をしているもので、「足の裏は地面に開かれていて、地面の奥の方に、足の裏を押していきます。そうすると、膝が磁石に引っ張られるように、自分から遠くなる方向に伸びていって、仙骨は下から雲に押し上げられるように、地面から離れていきます。骨盤にはひもがくっついていて、天井の方向にゆっくりと引き上げられていきます。」という「動き」を、「導き出すためのイメージ」になります。
これはシンプルに「前屈」ですが、「上半身の力を抜いて、骨盤から、お水が入っているチューブがぶら下がっているのをイメージして、そのチューブがどこかで縮んだりせずに、気持ち良く、中のお水が頭の方に流れていくようにしましょう。そうすると、坐骨についている風船が、軽くふわふわと空に浮かんでいって、足の裏が地面から離れていくように、脚全体が伸びていきます。」という「動きの誘導」になるかなと思います。
これらはロルフィングで扱う「シンボル」ではないのですが、これらを「視覚化」できることで、「(内側からの繊細な)動き」を「導き出す」ことができるようになります。
「何も考えずに、ただ前屈する」のと、「これらをイメージしながら前屈する」だと、「動きの質(クオリティ)」が変わってくるのは、そんなに想像に難しくないと思います。
「シンボルが顕れる」ということは、「動き(または身体そのもの)の質が、高いレベルで変容している」ということになり、セッション8、9の「統合のセッション」くらいまで「10シリーズというプロセス」が進んでくると、そういう「抽象的な(右脳的な、全体的な)」アプローチをしていくことの方が大切になっていきます。
スポーツの競技レベルが、高くなればなるほど、その指導方法は「より抽象的」になることがありますが、それに似ているのかなと、個人的には感じています。(だからこそ、一流選手の「動きのイメージ」は、一般人には「何だそれ?」というものが多かったりするのです。)
2つの「補完し合う」シンボル
では、実際にロルフィングの「シンボル」の説明もしていきたいと思います。(前述の通り、抽象度が高くなってくるので、普段からあまり身体を扱っていない方は、少し想像しにくいかもしれません。その場合は、Aさんの感想に進んでください。)
これから紹介する「シンボル」は、厳密にはロルフィングの授業で教えてもらったものに、僕の考えも含めたものです。
◯5つのライン(5 Lines)
これは、「心臓」を中心に、両脚、両腕、首の「5つのライン」が伸びていて、それらはすべて「つながり合って」います。「どこかで動きが生じると、それがすべてのラインに影響して、波及していく」ということを意味しています。
・骨盤帯、肩甲帯は「ない」
・動きの「はじまり」、または「切り替え」は、
胸椎、腰椎の移行部である「LDH」で行われる
・「動き」が生まれ、それが「つながり」、「流れて」いく
・「頭」は5本のラインの関係性に支えられている
・「何か自分でする(doing)」という「自己主張」と、
「男性性」を象徴している
下の「5つの眼」が、「場(フィールド)」を生み出すのに対して、そこを行き交う「動き」を表しているのが「5つのライン」です。
右脚の動きが、「Lumbodorsal Hinge(LDH)」を経由して、左腕の動きにつながったり、両脚のサポートによって、首が伸びやかになり、頭が軽く支えられるようなイメージを表現しています。
ヨガのポーズをする時などは、このシンボルをイメージすることで、「一本芯が通ったような、伸びやかな」動きをすることを助けてくれるかと思います。
◯5つの眼(5 Eyes)
このシンボルは、両足の裏、両手の平、第三の眼に「5つの眼」があって、それらがすべて「調和、共鳴し合って」います。それらは「同時に反応して、そこに何か現象が起こる場を作り出す」ことを意味しています。
・骨盤帯、肩甲帯が「ある」
・「水平」、「垂直」があり、それらは「直角」に交わる
・すべての眼が調和するので、「秩序」がある
・「すべてと調和します(being)」という「受動性、協調性」と、
「女性性」を象徴している
上の「5つのライン」が、「行き交う動き」だとして、それを可能にする「場(フィールド)」を提供するのが、このシンボルになります。
「動き」ではなく、「調和、共鳴」を象徴しているので、「立つ」、「寝る」などの際に、これらのシンボルをイメージすると、「身体が一つにまとまってくる感覚」がつかみやすいかと思います。
男の中に女に気づくこと、女の中に男が在ること
上の動画は、以前も紹介した「フレッド・アステア(Fred Astaire)」さんと、今回初めて登場する「ジーン・ケリー(Gene Kelly)」さんが一緒に踊っているシーンです。
二人共とても素晴らしいダンサーなのですが、「動きの質感」が全く違うのがわかるかと思います。
この動画は、「地面(グラウンド)」と「空(スカイ)」に対して、どちらに「つながり」を求めるのか(英語では、"Orientation"と言います)を説明する時によく使われることがあります。
アイダ・ロルフさんが「ロルフィングを受ける必要がない(ほどに統合された身体、動きを備えている)」と評した、フレッド・アステアさんは「スカイタイプ」に、ジーン・ケリーさんは「グラウンドタイプ」に分類されます。
確かに動画を見てみると、フレッド・アステアさんは、空(空間)に向かって、「伸びやかに、軽やかに」踊っていて、ジーン・ケリーさんは、地面を「踏みしめて」、「どっしりと、力強く」動いているように見えます。
今回の「シンボル」の説明でも、この動画はとてもわかりやすく、フレッド・アステアさんは「5つのライン」のように見えて、ジーン・ケリーは「5つの眼」のようにも見えます。
先ほどの、「グラウンド/スカイ」の分類だと、「グラウンド→男性性、スカイ→女性性」とも考えられますが、「5つのライン/5つの眼」の分類だと、「ライン→男性性、眼→女性性」という考えもあり、これだとフレッド・アステアさんは、「スカイ(女性性)、ライン(男性性)」ということになり、少し矛盾したようにも思えます。
よく統合された個人は、
彼らの人格の男性側と女性側の両方に
アクセスできなければならない。
そして、それは性別(Sexuality)や
両性性(Bi-Sexuality)とは無関係です。
- アイダ・ロルフ
アイダさんのとても興味深い言葉ですが、ロルフィングを受けて「統合」されてくると、「男性は、自分の中に受容する心、つまりは女性性があることに気づき、女性は、力強さや意思の貫く心、つまりは男性性が芽生えてくる」ということを言っています。
これは世の中で活躍している人を見ても、そう感じるところがあって、一見、すごく男性らしい社長さんでも、実は、女性のようの細やかさ、気配りができていたり、とてもきれいで魅力的な女優さんが、実は、負けん気の強さは男性以上という方がいらっしゃったり、自然に「個人の中に、両方の性が高いレベルで統合された状態」になっているのだろうと思います。
そういう意味では、この動画のお二人が「完全に分類できない」のは、「どちらもバランスよく含んでいる」からであって、だからこそ「後世に語り継がれるほど」に評価をされているのだと、僕は考えています。
実際に、「男性性/女性性」だけでなく、「グラウンド/スカイ」のタイプも、「5つのライン/5つの眼」のシンボルに関しても、どちらが優れているかという「優劣」の問題ではありません。
これに関しては、アイダ・ロルフさんの考えのように、「どちらも含まれている」というのが、ロルフィングで目指している「よく統合された個人」なのだと思います。(トップアスリートの身体、動きを見ても、そのレベルが上がれば上がるほどに、「グラウンド/スカイ」にしても、「5つのライン/5つの眼」も、どちらの要素も含まれているようになります。)
そういうことで、「2つのシンボル」の説明をしてきましたが、「どちらかをセッション8で、もう一方をセッション9で」という形ではなく、「上半身、下半身に分けて、下半身の中に2つのシンボルが顕れるように、そして次のセッションでその反対をするように」していくのが、セッション8、9のもう一つの目標になります。
大分長くなりましたが、ここまでをまとめてみると、「統合のセッション」のセッション8、9では、「(2つの)シンボルが顕れる」のを一つの目標にしていて、それらを「上半身、下半身に分けて」セッションしていきます。統合のセッションまで入ってくると、大分、身体の統合も進んできて、「さらなる身体の構造、動きの質的変化」を引き出すためには、「より抽象的な」アプローチが必要になってきて、それが「シンボルを用いた」ものだということです。
それでは、Aさんの実際の感想見てみましょう。
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ロルフィング9回目。1ヶ月ほど間が空き、久しぶりの感じ。久しぶりのフェスタは、なんだかとっても落ち着くし、心地いい空間だなぁと再確認します。
ロルフィングも久々で、なんとなく感覚が戻るまで時間がかかってしまいました。ゆうたさんにロルフィングでタッチしてもらうのは気持ちが良いと感じるので、前半〜中盤までは身体がほぐれて、可動域が広がっていくとともに、うとうと眠りに入ってしまいました。
あとは、身体的なことではないのですが、ロルフィングも残り2回ということもあってか、後半からロルフィングのことやロルフィングを始めたゆうたさんに聞きたいことが思いついて、沢山質問してしまいましたね。自分の中では、ロルフィングの可能性や、ロルフィングが、生きていく上でなにかとても大切なものにつながるのではないかと潜在的に感じます。
第9回目のロルフィングが終わってみての、1番の変化、それは、視界の広がり、見える世界の横幅が広がったことかと思います。同じところを見ていても、前まで45度くらいしか見えていなかったけれど、9回目が終わった後は90度くらい見えていたような、そんな感じがしました。
今までも同じ景色を見ていたのに、ある一部分しか自分は見ていなかったのだなぁ、と感じた、そんな9回目でした。
また、特に今でも心に残っていることを書きます。それは、私はどこかでずっと自分がこの人生で何を目的としているのか知りたいとどこかでずっとぼんやり思っていたのですね。
そして、ゆうたさんとはやっていることも考えや経験も、全く同じではないとは思いますが、ゆうたさんがおっしゃっていた、人間を知りたいという、ゆうたさんの人生のテーマ...私のテーマもこれだと思います。生きている間は、人間というものに一緒興味を持ってそれを知るために、自分なりにいろいろ動いていくのだと思います。
※内容が変わらない程度に、少しだけ修正しています。
水平方向への広がりと垂直方向への貫き
10シリーズも終盤になってくると、今回のAさんの感想のように、「視界の広がり、見える世界の横幅が広がった」感覚が、自然に出てくるようになります。
ロルフィングでは、特に「地面から上向きの反重力的なラインの力が、身体が支えてくれるように」と、「垂直のライン」を大切にしていて、それがアイダ・ロルフさんが目指した「より高いレベルで統合された人間」のあるべき状態だと言われています。
そんな「天と地をつなぐ(貫く)、垂直のライン」を立ち上がらせるために、まずは身体の構造を「水平」にしていくことが大切になります。
セッション4〜7は「深層のセッション」と呼ばれていますが、その中のセッション4〜6は「骨盤帯の水平化」を確立して、セッション7では「肩甲帯の水平化」が目標とされます。
そうやって身体の構造が、どんどん水平になってくると、自然に「垂直のライン」が現れてきます。
上の図がそれを示したもので、身体の各構造を「リングの重なり(図の黄色の円)」と考えた場合、「それを貫く縦の線(赤色の矢印)」が「垂直のライン」になります。
図の左側のAは、「理想的なリングとラインの関係」を表していて、ロルフィングの10シリーズが進んでくると、このような状態になっていきます。
リングの大きさも、位置も、傾きも、すべてが「平行に」揃っていると、それを通り抜けるラインは、「はっきり、力強く」なります。
リングの「大きさが小さい」というのは、「内股に閉じられた膝」であったり、「浅い呼吸のせいで、潰れて動きの少ない胸郭」であったり、「硬く、広がりに欠けるコア(体幹)」のように、「内側に向かって硬くなり、外に拡張していくことができない状態」を意味しています。
Aさんのセッション3で、「ボリューム(厚み)」の説明をしましたが、それが「リングの大きさ」と対応しています。身体の構造に自然なボリュームが出てくると、そこを「容易にラインが通りやすく」なります。
次のリングの「位置」というのは、身体を「セグメント」に分けて、それらの「位置関係」になります。イメージとしては、身体を「ダルマ落とし」のように分けて、それがずれたり、揃ったりしている感じです。
この位置がずれてしまうと、リングが通り抜けることができる「面積」が小さくなり、ラインが「通りにくく」なるのは、想像しやすいと思います。
最後に、リングの「傾き」ですが、これは「骨盤の前傾、後傾」であったり、「体幹の側屈」、「頭の傾き」などを意味しています。
いくら大きさが十分で、位置が揃っていたとしても、リングの傾きがずれてしまうと、それでも面積は小さくなり、ラインは「通りにくく」なってしまうので、身体が「(ラインの働きによって)上向きにリフトされる」感覚というのも、薄くなってしまいます。
そうすると、身体は「重く」感じられ、様々なところに「凝り、張り」を感じるようにもなります。
上はロルフィングの「公式ロゴ」ですが、これは「ボックスとラインの関係性」を示していて、上で説明した「リングとラインの関係性」と同じようなことを表しています。(ボックスは「大きさ」、「位置」まではリングと同じですが、「傾き」ではなく「回旋」になるところが違っています。)
このように、ロルフィングは「垂直のライン」が現れてくることを、最終的には目指しているのですが、「身体の各構造を、それぞれ水平に整える」ことを通して、それを達成しようとします。
そして、身体の「垂直方向への貫き」が出てくると、自然に「視線が水平方向に広がる」ことが起きてきます。
大切なポイントは、あくまで「水平方向への広がり」というのは、「垂直方向への貫き」が出てくることの「結果」であって、さらに「垂直方向への貫き」というのは、「身体の各構造を、それぞれ水平に整える」ことから生じてくる「結果」であるということです。
「垂直方向への貫き」と「水平方向への広がり」という「結果」は、「いじること(何か手を加えること)」はできません。
「身体の各構造を、それぞれ水平に整える」という「条件」は、「整える」ことはできます。
そしてそれらを丁寧に、慎重に整えて、あとは「待つ」だけです。
この「結果と条件」に関しては、Aさんのセッション10で、もう少し踏み込んで説明したいと思います。
開かれた視野が安心・安全を生み、身体はよりゆるみやすくなる
身体の中に「垂直方向への貫き」が現れてきた「結果」、感じられるようになる「水平方向への広がり」というのは、とても大切な意味を含んでいます。
それは、「(外敵から身を守るために)危険を察知しやすい」という、「生物として基本的な能力」が高い状態ということになります。
現在では、なかなか敵に襲われることは想定する機会も少なくなりましたが、その「危険を察知するための広い視野」は、「周囲の状況を広範囲に把握する能力」に転用され、それが「安心・安全」を感じる大前提になっています。
「安心・安全」というのは、動物が「社会性」を持ち始めた基礎の部分で、集団でいることで安心・安全が、「安定して確保」されるようになり、そのおかげで「知性」も発達させる余裕も出てきて、さらには「芸術」も生まれるようになります。
そして「人が人が癒やすこと(医療)」も起きてくるのです。
つまり、何か「知性的なこと」をしたり、「芸術が生まれる」ことであったり、「人が人を癒やし、慰め、労る」には、「(ある程度の)安心・安全」が必須条件になります。(それが著しく脅かされると、そんなことをする余裕はありません。)
身体がボディワークを受けて、「ゆるむ」ということが起きるためには、その前提に「安心・安全」を感じていなければいけなくて、施術を受ける部屋がとても汚かったり、外の音がうるさかったり、誰かに簡単に部屋の中の様子を見られたり、聞かれたりする可能性があったり、施術者自身の言動が攻撃的だったり、触れ方が乱暴だったりすると、身体を「ゆるませる」という状態は起こりようがないのです。
「身体を支えてくれる上向きの垂直のライン」が自然に現れてきて、それに「乗る」ことができると、「水平方向への広がり」を感じるようになります。
そのおかげで、「周囲の状況を、より楽に広範囲で把握できる」→「(より高いレベルでの)安心・安全を感じる」→「施術者に身体をゆだねられる」→「(さらに高い、深いレベルで)身体がゆるむ」→「身体の構造の統合のレベルが上がる」→「垂直のラインがよりはっきりと感じられるようになる」→(以下、繰り返し)という、いいサイクルに入っていくことができます。
さらに「水平方向の視野の広がり」は、「想像力の豊かさ」にもつながります。
広い範囲を「(視覚的に)捉える」ことができるので、「ものごとの関連が見えやすくなる」ようになり、「相対的、全体的にものごとを考えること」が可能になってきます。
もしも視野が狭いと、「ものごとを一面だけで捉える」ことにもつながりやすく、「限られた情報だけで決めつける」ようにもなってしまいます。
ロルフィングを受けていくと、「〇〇と△△は、実はつながっていたんですね」や、「痛みというのは、悪いものなのではなくて、自分をより心地よい方向へと導いてくれるきっかけなんですね」という気づきが出てきたり、「いろいろな要素がつながり(関連)を持ち始める」ようになり、「点ではなく、線(さらには立体)で捉える」思考方法にシフトしていきます。
そのことは、Aさんはもちろん、他のモニターの方々の感想を辿ってみると、その変化がわかりやすいかと思います。
今回のAさんの感想でも、「身体が痛い/痛くない、苦しい/心地よい」というだけでなく、「人間をより知りたい」という「人生のテーマ」にも気づけてきたようです。
僕自身が、Aさんの人生相談を受けて、それに対して具体的なアドバイスをしたわけでもないですし、ロルフィングを受けたら、人生のテーマを見つけることができますよということを言いたいわけでもないのですが、ロルフィングのロゴが表すように、「身体の構造が水平に整えられ、それによって垂直のラインが現れる」ということをしていくと、「視野が広がり」、「ものごとを多視的(相対的、全体的)に捉える」ことができるようになり、それが「人生のテーマに気づくこと」にもつながってくるということがあるということです。
この「広がり」が、僕がロルフィングに感じている「魅力」であり、「一人として同じ10シリーズのプロセスは存在しない」ので、「人の数の分だけ、その人に必要な変化のプロセスが起きてくる」のです。
でも、大切なところは「直接的に、この『広がり』は求めない」というところです。
いきなり広げてしまうと、ただただ「とっ散らかる」というのがオチです。
きちんと「その人らしい軸(ライン)が、自然に現れる」と、自然に「広がり」が出てくるということです。
世の中の天才的な仕事をした人たちをよく観察してみると、「自分の好きなことを、深く(垂直に)掘り進めた」ことによって、それが「人類に普遍的な(水平に広がる)発見、アイディア」につながってくるというのがよくわかります。
先ほども書きましたが、「結果はいじることができない。整えられるのは条件で、そして待つことが大切である」ということなのですが、それは次のセッション10で詳しく説明してみたいと思います。
「触れることのできる」身体を、丁寧に、慎重に、本質的なところから整えていくと、「思ってもいない素晴らしいこと」が起きてくることもあるということです。
今回のAさんの感想にあるような、素晴らしい発見、体験に、少しでもロルフィングが役に立てていたら、ロルファーとしてうれしい限りです。
次のセッション10も楽しみにしています。
Yuta
( Posted at:2017年7月12日 )
今回はDさんのセッション8になります。
感想の中には直接そういう表現はありませんが、「のぼせ」の状態になっているのかなという感じでした。
4月、5月というのは、どんどん暖かくなってきて、身体も「開いてくる」時期になるのですが、冬の「閉じた」身体を引きずって、移行がうまくいかないと、頭に「熱」が閉じこもってしまって、「のぼせる」ような感じになってしまいます。
さらに、暖かい空気と共に、空気中には「花粉」や「黄砂、PM2.5」などの「微粒子」が舞い始める時期でもあるので、それに反応することによって「鼻づまり」も起こりやすくなり、余計に「抜けが悪い(滞った)」身体になることがあります。
そのことを、感想の後に詳しく書いていこうと思います。
それでは、Dさんのセッション8の感想をご覧ください。
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最近ちょくちょく左脚の付け根あたりが痛むようになってきました。
調子が悪いな、と感じるときのきっかけがだいたいそれです。
今回もちょうど痛みと違和感を感じはじめているときのセッションでした。
終わった後は脚の痛みもなくなり、歩いても脚も手も軽く感じてました。
今日、ちょっとした距離を歩いたら、また脚の付け根に違和感を感じるようになりました。
いつもよりそんなに歩いてないのに何が悪かったのかな。
痛む側に原因があるわけではない時もある、と昨日聞いたので、自分でも様子を見てみようと思います。
昨日のセッション中は、途中から喉の奥がひっぱられるような感覚が気になってました。
今もちょっと喉の辺りが気になるような気がしますが、鼻から呼吸をするのはすごく楽になりました。
あと頭が涼しく感じるような気がします。
全体的には体も軽くなって、頭もすっきりしています。
もう残り2回ですね。
次回も宜しくお願いします。
春先の「のぼせた」身体
身体というのは、「いちばん身近な、小さな自然」であると考えていて、日々の天気の変化や、季節のゆっくりとした移り変わりにも、常に反応していて、こちらが意識をしていなくても、「もっと大きな自然の流れに調和するように」働いてくれています。
冬の寒い間は、熱を外に逃さないように、身体を「硬く、閉じた」状態にしておくのが普通です。そういう時期は、無理に身体を伸ばしたり、開こうとしなくても、呼吸の動きを眺めてみたり、それに伴って生じる熱を感じてみたり、「内側(のより微細で、静かな動き、働き)に意識を向けてみる」だけでも十分だと思います。(冬は自然に精神的にも内側を向くので、自分を内省することが多くなったりします。)
それが春になってくると、太陽の光も暖かくなり、地面を温め、土の中から、虫や小さな動物たち、そして草木たちも、「もぞもぞ」と動き出してきます。それは「内側に閉じこもって、エネルギーを蓄える」状態から、「外に向かって開き、蓄えていたエネルギーを発散させながら、動き出す」状態への変化です。
もちろん身体もそれに調和して、皮膚がゆるんで毛穴が開き始め、強張っていた筋肉も「もぞもぞ」と動いてきて、身体が「起きて、開いてくる」ようになります。
そんな移行の時期に、ずっと家の中にこもっていたり、外の自然の変化を感じずにいると、なかなか身体が起きて、開こうとせずに、「ぐずぐず」としてしまうことがあります。この時期に体調を崩す人は多いのですが、そういう人の身体は、「変化に対応しにくい、閉じて固まった」状態になっていて、「なんだかすっきりしない」感じが長く続いてしまっているのです。
「上虚下実」という言葉がありますが、「下(下半身、下腹)に力、熱、エネルギーが満ちていて、上(上半身、頭)はすっきりと、涼しく、空である」という身体の状態のことで、「健全な身体」の特徴であると言われています。
昔の日本人の身体能力というのはすごくて、上の写真のような女性が、特別に珍しい存在ではなかったと想像します。日々の農作業などの生活の中で、「上虚下実」な身体を実践できていたからこそ、現代人には「想像しにくい(実感として持ちにくい)」ことが可能であったのだと思います。
これだけ重いものを頭の上に乗せながら、首が圧迫されている感じには見えません。足腰はどっしりと安定していて、表情は爽やかです。
ロルフィングで目指している「ラインに乗った」状態というのも、下半身は地面に「グランディング」していて「安定感」があり、そこから「身体を支えてくれるエネルギー」は、「頭頂の上まで」抜けていきます。「頭は軽く、地面からのサポートによって支えられている」ような感覚があります。
これらの感覚を、少し違った表現をしてみると、「抜けのいい」身体とも言えるかもしれません。どこかでエネルギーが「滞る」こともなく、安定した下からのエネルギーの「流れ」があります。
これが反対の「上実下虚」や「ラインに乗れていない」状態になると、「下はグランディングせずに不安定で、力もエネルギーも足りず、上の頭が過剰に働き、熱がこもってしまう」ようになります。
そのような状態では、身体は「のぼせた」感じになってきて、「エネルギーや力、熱の抜けが悪く」、「循環せずに滞っていて、ぐずぐず」としていて、「なんだかすっきりしない」調子が長く続いてしまいます。
寒い冬から春への移行の時期には、身体が「のぼせ」気味になりがちなので、「下はグランディングしていて、上は抜けがいい」状態は、つまりは「上虚下実」の身体を目指すのがいいかと思います。
それは本当に「花粉症」なのか?
「のぼせた」身体というのは、「頭にエネルギーがこもった」状態であると説明しましたが、「花粉症」などで「鼻がつまって」しまうと、さらにそれに拍車をかけてしまいます。(さらに「抜けが悪く」なって、「停滞」してしまいます。)
花粉症は、身体の「免疫システム」が、花粉という「身体には無害なもの」に対して、「過剰に反応してしまう」状態のことで、身体が花粉に対して「(有害だと)誤解」しているのですが、「花粉症ではないのに、花粉症ということで済ませている」人も多いのではないかなと、最近考えています。(つまり、それは「誤解」ではないということです。)
どういうことかと言うと、最近は、「黄砂、PM2.5」などの「身体にとって有害なもの」も、空気中を浮遊していることが多く、それに対して、免疫システムが「正常」に反応していることもあるということです。
同じ「花粉症のような鼻づまり」という症状があったとしても、「無害なもの(花粉など)」に対して、「過剰に(または誤解して)」反応している場合と、「有害なもの(黄砂、PM2.5、放射性微粒子など)」に対して、「正常に」働いてくれている場合とがあって、後者の場合には、きちんと免疫システムが働いてくれて、「有害なものを、鼻水などによって体外に排出する」ことをしてくれないと、それはそれで大変なことになります。
もしもそれを、「鼻がつまって苦しいから、花粉症用の薬でも飲んでおくか」などと勝手に判断してしまうと、「有害なもの」を「身体の中に、安々と侵入させてしまう」ことになってしまいます。
僕自身、昔は「花粉症」ではなかったのですが、最近やけに「くしゃみ、鼻づまり」が多くなったなと感じていました。試しに、病院で「アレルギーチェック」をしてみたのですが、「花粉」などに対しては、何もアレルギー反応を示しませんでした。
山形に引っ越してきて、車を運転するようになりましたが、車にべっとりと「黄砂」が付着していることもあったり、山形は周りを山に囲まれていますが、その山が「霞んで見える」こともあります。山が見えにくいほど、空気中に「黄砂」が浮遊しているのです。
そうなると、それには「身体の免疫システムが、どんどん働いてもらう」方がいいので、「鼻がつまっている方が、正常な反応」ということになりますし、「マスクを付ける」など、「そもそも有害なものを入れない」対策が必要だと思います。
このように、「鼻がつまって辛いんです」という症状があったとして、それを安易に「取り除いて」しまうと、身体の「自然治癒力(自己免疫力)」の働きを「邪魔」してしまうことになります。それによって、もっとひどい状態になってしまうこともあるかもしれません。
ただ「症状をなくす(抑えつける)」のではなく、それが出てきた「背景」を丁寧に見てあげないと、自分の身体に良かれと思ってしていることが、まったく反対の結果を招くことも起きてしまいます。
ロルフィングで花粉症、アレルギー症状が改善することもある
「(花粉症などの)アレルギー症状」は、「身体が硬く強張って、変化に対応しにくい」時や、「身体が弱っていて、微細な刺激でも負担になってしまう」時などに起こりやすくなります。
具体的には、仕事が変わったり、引っ越しをしたり、結婚、出産を経験したりして、「自分の周りの環境が大きく変化」するような時で、それらの変化による緊張やストレス、そして疲労の影響で、上に書いたような身体の状態になってしまいます。
アレルギー症状は、「(無害なものを、有害だと認識してしまう)誤解」がきっかけで始まって、さらに「誤解は誤解を招く」ことがあるので、「よりわずかな量」でも、「より様々な種類」に対しても、反応をしてしまうようになり、症状が「強まる(重症化する)」ことがあります。
普段だと、身体もある程度整っていて、余裕もあるのですが、環境の変化で「いっぱいいっぱい」になると、身体の免疫システムも「誤解を生みやすい(周りが敵に見えるような)」状態になり、アレルギー症状が出やすくなり、それで身体がさらに「余裕がなくなる」と、「誤解がさらなる誤解を生む」という悪いサイクルに入っていってしまいます。
そういう時に、ロルフィングを受けるとことで、身体自体の余分な緊張や制限がなくなり、また「適度な余裕」を取り戻すことができると、免疫システムの「過剰な反応」も収まってきて、アレルギー症状も治まりやすくなることもあります。
以前、
ボディートークというボディワークの1日セミナーを受講したことがあったのですが、そこでアレルギー症状に関して、興味深いエピソードを聞くことができました。
「とんがり通信」という紙媒体に、そのことを書いたことがあったので、それを下に載せてみます。
誤解する脳、アレルギーな身体
あるアメリカの少年が、「アイスクリーム」に対してアレルギー反応を起こして病院に行きました。お医者さんが調べても、アイスクリームにはアレルギー物質は含まれていませんでした。お医者さんでも原因がわからず、少年はいろいろなセラピーを受け、とうとうその不思議なアレルギー反応の「背景」がわかってきました。それは、アイスクリームを食べていた時に、その少年の両親が離婚の話をしていて、「両親の離婚」というとてもショッキングな出来事と、「アイスクリームを食べる」という行為が、脳の中で勝手に「関連付けられてしまった(誤解してしまった)」ことが原因でした。私たちの脳は、さまざまなものを関連付ける「クセ」があり、それがアレルギー反応を引き起こすこともあるのです。何の関連もないものを「誤解」して、誤解は誤解を呼び、どんどん膨れ上がります。それが「症状」まで発展してしまうのです。その誤解を「解く」ためのカギは、規則正しい生活をして、心身も健やかにして、「偏りのない、自然で余裕のある身体」になることです。薬で症状を抑えるだけでなく、生活を整え、心身が健全であることもとても大切なことです。
花粉症などもそうですが、アレルギーは「現代病」とも言えるほどに、たくさんの人たちが困っているもので、それでも決定的な解決策はないのが現状です。
上の文章にもありますが、「生活を整え、心身が健全であること」が、実は一番大切な「アレルギー対策」なのではないかなと思っています。
今回は「のぼせ」と「花粉症とアレルギー」のことも説明させてもらいました。
春先の移行の時期は、「のぼせた」身体になりやすく、「なんとなくボーっとしたり、なんとなく調子が悪い状態が続く」人が多いのですが、それが「花粉症などによる鼻づまり」で、さらにその状態を悪化させてしまうことがあります。
Dさんには、花粉症の症状やアレルギーもなかったのですが、「頭が涼しく感じる」とあるように、少し「のぼせ」気味だったのかなと思います。
セッションで身体が整うと、「上虚下実」な身体に近づいたようで、脚の違和感も軽減し(翌日また歩いたら出てきたとありますが、後日確認したら、すぐになくなったようです。)、身体も軽く、頭もすっきりとしたようでよかったと思います。
残すところセッションもあと2回となりました。次回のセッション9も楽しみにしています。
Yuta
( Posted at:2017年6月24日 )
Eさんも統合のセッションに入りました。
ロルフィングは、「人に関する領域」を広く扱うので、ロルファーが学ばなければいけないことは多岐に渡ります。
解剖学、生理学などの身体の専門知識はもちろん、心の働きを知るために心理学やカウンセリングを学ぶ人もいたり、宇宙の成り立ちや物質の運動など、科学全般の知識を深めたり、「人が癒える」とは何だろうと哲学の本を読むこともあります。
実際に、人はたくさんの要素から影響を受けているので、様々なことを考慮に入れておく必要はあるのですが、それらを「統合」していく「センス」も重要になります。
以前、理学療法士の山口光國先生のセミナーに参加した時のことを
ブログに書きましたが、そこで山口先生がおっしゃっていたのは、専門的な知識やテクニックのことではなく、「人をみる」ということについて、いろいろな分野からの視点を交えながら、自分なりの考えを深めていくような内容でした。(そのセミナーは、「センスアップセミナー」という名前が付けられていました。)
理学療法士という職業は、「痛み」を扱うものですが、それを丁寧に突き詰めていくと、「人間の理解」という大きなテーマに行き着いて、そのためには多くのことを学ばなければいけないというのは、ロルフィングと同じなんだということを、セミナーに参加して感じました。
そうやって広い視野を持ちながらも、それを貫く芯(センス)を大切にしながら、人に向き合い、触れることをしていくと、受け手の人に起こる変化は、「痛みが取れるかどうか」だけに限定されたものではなく、構造のダイナミックな変化や、自分の身体への気付きの深まり、センサーとしての身体の感度の改善、動きやパフォーマンスの質の向上、精神面のポジティブなシフトなどもあり、さらには、仕事、家族など周りの環境の捉え方までに、その影響が及ぶこともあります。
Eさんの今回の感想を見てみても、ただ「腰が痛みがなくなりました」や、「姿勢が良くなりました」などといったものではなく、「いろいろな角度から自分を見つめている(多視的に、自分の状態を捉えている)」のがわかります。そしてそれが、バラバラと「ランダム」に並べられているのではなく、きちんと「芯」のようなものがあって書かれています。
ボディ(肉体)、マインド(精神)、スピリット(魂)の3要素のバランスは、多くのボディワークで大切にされていることですが、それがEさんはバランスよく統合されてきている印象を受けます。
それでは、セッション8の感想を見てみましょう。
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前回以来、仕事では相変わらずバタバタ走り回っているような日が続いていますが、腰や脚の痛みや疲れはむしろ気にならなくなってきており、ロルフィングによる身体の変化の面白さを実感しています。
8・9回目は上半身・下半身の統合がテーマとのことで、アンバランスさが目立っていた上半身からケアして頂くことになりました。やはり下半身が良い状態だから足腰が楽だったんだなと思いました。
右のお腹と腰に手を当てられている時はあまり身体の反応が感じられなかったのですが、「内臓がすごく動いてる」と言われました。運動をしていたせいか、身体の反応というと筋肉系の動きばかり意識していたようです。内臓のことも、もう少し気にしてあげないとなあと思いました。後で両方の腰骨に手を当てられた時は、内臓が動いているのが分かったし、腰回りが緩むのが感じられました。
左肩甲骨の詰まりはまだなくなりませんが、ロルフィングに通う内に、こういうことも自分の状態のバロメーターになる面があるため、完全になくさなきゃいけないとは思わなくなりました。一方で、なくなるまで身体をケアしたらどうなるかな、ということに興味が出てきました。
最終的な調整で足首を触って頂いた時、そこからぐーっと身体が伸びていく感覚がありました。「反応がよくなっている」というようなことを言われましたが、実生活でも、ロルフィングを始めてから自分の心身を敏感に感じられるようになったと思います。特に精神面で、今までは自分を抑えこんでいたような場面で、「これは今解決しておかないと後でしわ寄せがくるな」とすぐ対応するようになりました。それはけっこう面倒なことではあるので、ロルフィングを受けたから「人生バラ色」というわけではないと実感しました(笑)。でも、より本来の自分らしく、正直に生きられるようになるとは思います。
次回まで、またよく自分を観察して過ごそうと思います。ありがとうございました。
「炭鉱のカナリア」として、違和感が残るということ
感想の中に、Eさんの左の肩甲骨周辺にある違和感のことが書かれてあります。
以前に比べると、違和感も薄くなり、場所も狭くはなってきて、セッション後にはすっきりとすることも多くなってきたのですが、それでも「完全になくなった」というわけではなく、「微妙な違和感」として残っているようです。
10シリーズを終えて、痛みも違和感も「すっかり消えました」という方もいますが、今回のように「すごく気になるわけではないけど、それでもまだある違和感」として残るということもあります。
そして僕個人としては、それが多少残ることがあってもいいケースがあるのではないかと考えています。「違和感があるならだめで、ないならいい」というわけでもなく、「結果的に残った違和感が、自分を良い方向に導いてくれるという効用もある(残ったことにも理由がある)」ということお伝えできたらと思います。
僕自身は、今までに世界各地のいろいろなロルファーから、何回もセッションを受けてきました。いろいろなスタイルがあって、よく話す人もいれば、無口な人もいて、こちらの心が折れそうなほどに強く圧を加える人もいれば、ほとんど触れるか触れていないかというタッチをする人もいれば、サクサク終わる人もいれば、たっぷりと時間をかけながらする人もいます。
それぞれがみんな違っていて、それぞれにきちんとその人の「意図」があるので、身体が整うはもちろんですが、受けていて本当に勉強になります。(個人的に、そうやって「セッションを自ら受ける」ということが、ロルフィングの一番の「学び」だと思っています。)
セッションを受ける度に、僕自身の身体は大きく変化してきていて、構造面はもちろん整いますが、自分の身体の感覚や、動きのクオリティも上がってきています。
そしてまだまだ「変化する余地」があると感じているので、これからもいろいろな人のセッションを受けていくと思います。(身体の変化には、終わりがなく、性別や年齢、抱えている身体の問題に関わらず、どんな状態からでも変化していくことができます。)
時々、クライアントさんから、「ロルファーさんだから、身体に痛みや不調などの問題はないんじゃないですか?」と聞かれることがあります。でも、そんなことはありません。
ロルファーも人間ですし、人間は「生きている身体」を持っているので、痛みに苦しむこともありますし、なかなか抜けにくい違和感があったり、風を引いて熱を出すこともあります。もっと年齢を重ねていくと、病気になることもあると思います。そして、それが「生きている身体」としては、自然なことです。
それではロルフィングを受けることで、何が変わってきたかと考えると、痛みや違和感などの「身体からのメッセージ(またはアラーム)」を「より微細に」感じ取れるようになってきたと思います。そしてそこから、「心地よく、快適な方向」に身体を調整、修正しやすくなったと思います。
ロルフィングは、「痛みや不調から解放されること」を目的としているわけではなく、その痛みや不調を通して、身体全体が何を伝えようとしているのか、「(身体の声に)静かに耳を傾けること」を大切にしています。それは、違和感を感じたとしても、そこに「留まり」、そして「感じ切る」ということです。
そうすることで、自然に身体が良い方向に、自ら調整、修正、統合されていきます。身体の中にある、「自然治癒力(自己調整力)」の流れに乗ることができます。中途半端に、それらをマッサージや施術を受けて「取り去って」しまったり、ないものとして「無視」したりしてしまうと、その「自然の叡智の力」を感じにくくなってしまいます。
「痛み、違和感、不調」があるということは、「身体というセンサー」が「アラーム」を鳴らしているような状況であったり、「主体としての身体」が「声、メッセージ」を発しているということなので、それらがどんなに些細なものであっても、まずはそれを「受け取る(聞き入れる)態度」が大切です。
それをすることなしに、上に書いたように、「他人(治療家、セラピスト)に任せっきり」にしてしまったり、自分には関係ないと「なかったこと」にしてしまうと、身体は「愛想を尽かす」ようになります。
そして、「(話に耳を傾けられず、関心を向けてもらえないことで)ひねくれてしまった身体」は、「より見えにくい、聞き取りにくい、気づきにくい方法」で、それを伝えるようになってしまうのです。(筋肉や関節の痛みであったり、肌の荒れなどは気づきやすいのですが、それが内臓などに症状が出てくるようになると、なかなか気づくことは難しくなります。)
痛みや違和感を「きっかけ」として、「身体に目を向ける(自分と向き合う)態度」が出てきたとしても、次はその「身体の言い分(メッセージ)の解釈」が重要になります。それには、「聞き取る感受性(身体のセンサーの感度)」が必要で、最初はそれが鈍かったとしても、ロルファーという「ガイド(または通訳者)」がいるので、そのサポートを受けながら、ロルフィングの10シリーズをしていくと、次第に「敏感」になっていきます。
最初は自分を苦しめていた「痛み」も、それが何を伝えようとしているのかを、ロルファーと一緒に「読み解いて」いくと、それも「違和感」程度に変化してきて、そのまま「(伝えることを伝え終わって満足して)消える」こともありますし、今回のように「(まだ伝えたいことがあって)残る」ということもあります。
そういったものは、「なんとかして消そう」と努力をするよりかは、Eさんの感想にもありますが、「このまま観察していくと、どうなっていくのか興味がある」と、少し余裕を持って(適度な距離感を保って)付き合ってもらうのがいいかなと思います。
そして、それが10シリーズが終わった後の、「メンテナンスセッション」の方向性にも関係していきます。僕としては、メンテナンスセッションは、「現状維持」のためのものではなく、「さらなる向上を目指した探求」という意味合いを持っています。
そういったことに関して、以前このブログでも紹介させてもらった、ロルファーの大先輩の田畑浩良さんのブログに、とても参考になることが書かれてありました。田畑さんのロルフィングセッションを受けられたクライアントさんの感想ですが、僕の伝えたいことがそこに含まれているように思います。
下にそのブログの内容を抜粋したものを載せてみます。
違和感は悪いものではなく、より自分らしく戻っていくための、ヒントみたいなもの
初めてロルフィングを受けたとき、まず一番に感じたのは、こんなふうに繊細に、感覚を大事にしてほしい、という身体の声でした。いろんなものがこみ上げてきて、泣きそうになったのを覚えています。
外側のことはきっかけにすぎず、自分を縛っていたのは、だれでもなく自分だったんだな、と思います。
(中略)
大人になるにつれて、少しずついろんなことを我慢したり、周りに合わせなきゃと思いすぎていたり、自分とは違う方向に、気づかないうちにずれていっていたんだなと思います。
痛みが出ることに対しても、自分の身体を無意識に責めてしまっていたんだなと気づきました。その痛みは身体を守って、そっちは違うよーと知らせてくれていたのにな、と。
今は、痛みもだいぶ和らいできていますが、痛みが出ているときも、あ、何を言おうとしてるのかな?とそれを感じながら受けとめて、心地よい感覚を探りながら、今どうしたい?と、ゆっくり身体を見守れるようになってきたように思います。
ときどき不安になったり、イライラしてしまうときも、まぁそんなときもあるよね~と、焦らず気持ちを感じていけるようにもなってきています。
こんなふうに自分のいろんな面に対して大丈夫だよ、と言ってあげられるようになったのは、とても大きな変化でした。
違和感は悪いものではなく、より自分らしく戻っていくための、ヒントみたいなものとして感じるようにもなってきました。
そして心地よい方に意識を向けていくことが本当に大事なんだなと。
自分のことも人のことも、弱い存在として心配の目で見るのではなく、自分で良くなる力を持っている存在として信頼の目で見ていくほうが、どんなに心強いことかと感じています。
ロルフィング中、田畑さんに、今はどんなかんじですか?と聞かれたとき、最初は言葉にしていくのを難しく感じたこともあったのですが、途中から(日常生活でも)すぐに言葉にしようとするのではなくて、自分の感覚をゆっくり見てあげて、それを自分なりの言葉になるまで待ってから、ゆっくり出してあげようと思うようになりました。自分の言葉も、拙くてもいいから大事にしてあげようと。
そうしているうちに、自分はこう思う、と言うこと(嫌なことを断ることや、私は違いますと言うこと)も、身体が一緒に手伝ってくれて、前よりも自然に外に出せるようになってきたように思います。
自分の心地いいペースは、自分が思っていたよりも本当にゆっくり、ちょっとずつだったんだなぁということにも気づきました。
やってみて、なんか違うなと思ったら、いったん止まってまた身体に聞いてみる。やめたいと言ってきたらやめる。嫌な場所からは離れる。そんなふうに、生活の中でだんだんと身体の声を尊重していけるようになってきました。それも、ゆっくりちょっとずつです。
また、周りにいる人たちがそれぞれに心地よくいるかんじが、なんかゆるむし嬉しくなるな~と、こんなふうに心地よさは自然と伝わっていくんだな~と、いろんな場面であらためて感じています。
その度に、自分にできることは、やっぱり自分の感覚を大切にすること、どんなときでも、心地よい方に意識を向けていくことなんだということも。
(以下、省略)
この文章を読んでいただくと、「違和感は悪いものではなく、より自分らしく戻っていくための、ヒントみたいなもの」というのが、わかっていただけるかなと思います。
痛みや不調が長く続くと、「こどもの頃は、どこも痛くなくて、苦しみもなかったのにな」などと考えることもありますが、こどもはその「豊かな感受性」で、「微細な違和感」を感じ取って、そしてそれを何かしらの形で表現しています。
「痛みや不調がなかった」というわけではなくて、「(痛みや不調を通した)身体の要求」に、「その場で、すぐに、素直に」従って、それに導かれるように身体を「軌道修正」するので、こどもはみな「溌剌(溜め込まずにすっきり)」としているのです。
上の文章の中でも、大人になると「我慢」をし始めて、それによって「身体の声」を「無視」するようになり、「自分で自分を制限する」ようになってしまったことが書かれてあります。
ロルフィングを受ける人の多くは、数ある治療やセラピー、ボディワークがある中から、ロルフィングを受けると決めた時点で、その痛みや違和感に「向き合う準備(態度、覚悟)」はすでにできていると思っています。そうでなければ、もっと「手っ取り早く」それらを取り去りたいと思って、違うものを選択していたはずです。
ただ「なかったことにする」のではなく、そこに「向き合う準備」があれば、あとはその「声(メッセージ)を読み解く感受性」を、きめ細かくしていくだけですが、それにはガイド役のロルファーがいます。
そして、10シリーズという「段階(プロセス)」を踏んでいけば、それらは自然に身に付いていって、最終的には、「ガイドなし」でも自分でそれに向き合い、感じ取っていけるようになっていきます。(自分で気づき、自分で修正することができます。)
今回のEさんのセッション8では、「痛みや違和感というのは、『悪者』ではなくて、自分を導いていってくれるきっかけ(ヒント)のようなもの」ということを、田畑さんのブログも紹介させてもらいながら説明してきました。
最後になりますが、僕が神戸にいる時に、社会人ゼミ生として多くのことを学ばせていただいて、とても尊敬している内田樹先生の文章も紹介させてもらって終わりたいと思います。
ないならないで越したことはない「痛みや違和感の効用」を、「炭鉱のカナリア」に例えて説明してらっしゃいます。ぜひご覧になって、みなさんの考えを巡らせてみてください。
「炭鉱のカナリア」という表現がありますよね。鳥は人間がまだ気づかないうちに有毒ガスを探知して騒ぎ出す。命にかかわる危険に対する感知能力というのは必ず「炭鉱のカナリア」的なかたちをとります。誰も倒れないうちに倒れる能力。僕はそれを「能力」と呼んでいいと思います。
(中略)
「自分にとって厭なことが起こりそうな気配を僕はずいぶんと手前で感知することできます。人間の場合でも、集団の場合でも、あるいはある種の制度やルールの場合でも、言葉一つの場合でも、わずかな身体的接触である場合でも、「厭だ。厭だ。これには絶対に我慢できない。」というアラームがけたたましく鳴り響く。もう、頭蓋が割れるほどに耐えがたい音量で。そうなると、もうとにかくアラームが鳴りやむところまで、その「厭なもの」から遠ざかるしかない。こっちだって必死です。
みなさんの身体の「痛みや違和感」も、この「炭鉱のカナリア」のように、みなさんにとって「避けた方がいいもの」を知らせてくれる大切なものです。少し立ち止まって、ゆっくりと「カナリアの鳴き声」に耳を澄ませてみてください。
次回のEさんのセッション9も楽しみにしています。
Yuta
( Posted at:2017年6月22日 )
Cさんもいよいよ「統合のセッション」に入ってきました。
今まで起きた変化、シフトを「まとめていく」というのが、大きな目標になります。
上の写真は、誰でも一度くらいはやったこと(あるいは見たこと)のある「石積み(Rock Balancing)」です。ロルフィングを学んだボルダーでも、川原を散歩していると、「何だあれは!」と驚くような石積みに何度も遭遇しました。
石ではなくても、テニスボールであったり、トランプであったり、何かしらバランスを取るような遊びは、不思議と盛り上がる世界共通の遊びです。
お友だちのロルファーの
佐藤正治さんのブログで、あの不思議なおもしろさと、ロルファーがセッション中に身体を触れている時に感じている感覚との共通点のことが書かれてあって、「なるほど、あの感覚はロルフィングで感じる『ラインに乗る、同調する』感じに似ているのだな」と、膝を打ったことがあります。
下にそのブログに書かれていることを、少し引用させてもらいます。
生たまごを立ててみた
立てようと遊んでいると、中に水のような移動があって
何度かチャレンジしていると
じーっと待っていて少しずつアジャストしてようやく立つ、コネコネ手で触っているうちに立つ
というより
急に「あぁもうこれ立つな。」という感覚がぽんっっと出てくる。ほら立った。という感じ
それまでぐるぐる動くたまごが急に軸の感覚を持ち、立つ
というよりも
たまごの軸は元々そこにあって、そこに繋がった瞬間「あぁ~立つぞこれは」って
最後の一文がとてもいいなと思います。
2つのボールを重ねる時なども、そのボールの位置関係を微調整すると、すっと「ライン(軸)が立ち上がってくる気配」を手の中に感じて、「あぁもうこれは立つな」という実感がぽんと現れてきます。
身体を触れている時にも、「ライン」が「現れてくる可能性(気配)」というのが身体の構造には元々あって、それと「つながる(乗る、同調する)」感覚が出てくると、そこに「ライン」が立ち現れてきます。そしてその時には、構造の中を構成している「粒子」が整列し始めて、中を巡る「流動体」も満遍なく循環し、「外から見える構造(姿勢)」も整ってきます。
これを「量子論」という分野の難しい言葉を持ち出して説明すると、「波動関数の収縮」のようなもので、ラインはまだここに見えてはいないけれど、「現れてくる可能性がある位置関係が無数にある(その確立は波のように表現される)」ということになって、そこに「観測者」の私がいて、「ここにしかない1つのライン」というのが「観察される」ことで、「無数に存在していた確立が収縮され、1つになる」ということが起こります。
人の身体の場合は、その構造が「生きている」ので、「観察される瞬間」には、その物体の中を構成している粒子も、中を巡るものも、外の構造の形も「整い、秩序立つ」ということが起こります。
卵の場合でも、「あぁもうこれは立つな」という感覚が出た時には、外の殻の形は変わりませんが、中を満たす液体は「ちょうどいい感じ(秩序を取り戻す)」になって、そして「軸」が現れてきて、すっとそれに支えられるように「立つ」卵を、「観察する」ということになります。(そして、なぜか「おお!」と、観察したみんなが感動します。)
そんなに難しいことは考えなくても、突然「あぁもうこれは立つな」という感覚が出てくるというのは、みなさんも実感としてあるかなと思います。
統合のセッションでは、「まとめていく」のが目標になると先に書きましたが、まるで写真の石の位置関係を、「全体のバランスの中で調整するように」、身体の構造のバランスをまとめていきます。そして最終的には、身体を支えてくれる「ライン」が立ち上がってきて、身体の構造が「(自らで)立つ」状態になるようにガイドしていくのが、「統合のセッション」では大事になっていきます。(特定の石にだけ注目して調整すると、全体のバランスが崩れてしまいます。目線は、「全体に」です。)
前置きが長くなりましたが、Cさんのセッション8の感想を見てみましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8回目
まずは自分なりにここまでの変化を確認しようと思いました
一番は姿勢がまっすぐになって立てること
そのとき土踏まずの感覚を意識して立ったり歩いたりしていること
そして頭痛の頻度が半分以下になっていたこと
それと半年ぶりに顔を合わせたお友だちに一言目に言われたことが
『目が大きくなっている~!』です
実はロルフィングの翌日にいつも変化がなにかしらある私ですが気のせいかなって思っていたことがあって、それが翌朝の鏡を見ると『目が大きくなってる』ことです
浮腫が取れているだけなのかよくわかりませんが第三者に指摘された変化なので間違いないと思います
統合の8回目
少し前から不具合が出てるところもありそれが右肩の肩こりがひどく何年ぶり?って言うくらい辛い
整形で治療を受けている肩の痛みとは全くの別物
それは今回のセッション後は一度も感じてません
ちゃんと統合された証なのかも知れません
それと今回のセッションでは目をつむっているのにずっと視界が明るく目を開けていたっけ?と実際に目を開けて確認したほど明るく白く感じました
そして何度も夢うつつの状態でオムニバスの映像が何度も流れたのにセッションが終わって目を開けたらひとつも内容を覚えていなくて不思議でした
帰り際靴を履いてフェスタの扉を開けて歩き出したとたん思わず声が出て大友さんに言いました
『軽っ!』足がとにかく軽かったです
足というか体全体が軽くて気持ち良かったです
あと二回楽しみにしています
「あれ、何か変わったね」と、周りに言われる瞬間
感想の中に、久しぶりに会った友人が身体の変化に気づいたエピソードが書かれてあります。
10シリーズが進んでいくと、どんどん身体が元々の自然な状態になってくる実感は出てくるのですが、それはあくまで「主観的」なもので(もちろんそれが一番大切なのですが)、「こうであってほしい」という思い(バイアス)が入っていて、実際にはそんなに変化していないという可能性もあるかもしれません。
そんな時に、身近な家族や、仕事仲間、親しい友人などが、「あれ、何か姿勢良くなってない?」などと言われることがあります。
それはある程度「客観的」な評価でもあるので、そういうことが起きてくると、大分身体も変わってきたのかなと思ってもらってもいいと思います。(もちろん、それにも「お世辞(社交辞令)」が含まれている場合もありますから、純粋に「客観的」とは言えないかもしれません。)
今まで5年ほどロルフィングのセッションをしてきて、そうやって「第三者が気づいてくれる」というエピソードをクライアントさんが教えてくれることがあったので、それをいくつかシェアしたいと思います。
・舞台で演劇をしていて、ボイストレーニングをずっと受けていたのだが、厳しい先生なのでなかなか先生も納得してくれず、自分も先生の求めていることに応えることができずにいたが、10シリーズが終わる頃に、「声が変わってきた」と評価された。先生にはロルフィングを受けていることは伝えてはいなくて、純粋に「声の質感」だけで変化を感じてもらえたので、身体の構造が整うことで、そういったものも変化して、わかる人にはそれがわかるのだなと思った。
・80歳を超えて、デイサービスでいつもマッサージをしてくれている人が、ベッドに寝ている姿勢も違うし、マッサージしていても身体の感触が違うし、何よりも大きく曲がった姿勢が、ピンと伸びてきたので、「何か特別なことをしているのですか?」と聞いてきたことがあった。
・ある日突然、旦那さんが「何だか肌がすごくふかふかと柔らかい感じがする」と、ハグをする時に言ってくれた。
・友人と会った時、「この前、街で見かけたんだけど、あまりにスッスと歩いていて、追いつけなくて話しかけられなかった。」と言われた。そんなに自覚はなかったけど、歩くのが早くなっているかもしれないと思った。
特にロルファーとしては、同じような業界の人(ボイストレーナー、マッサージをしてくれる人)に気づいてもらえるというのは、嬉しいことだなと思います。そして、「何がロルフィングで行われているのか」が気になって、実際にセッションを受けに来てくださる方もいます。
Cさんにも友人が気づくような変化が自然に起きてきているようで、今までの積み重ねが出てきているなと思います。
ロルフィングを始めたアイダ・ロルフさんは、こんなことを言っています。
「星を変えずに、空を変えなさい」
ロルフィングはすごくシンプルなアプローチで、個別の症状(星)にフォーカスしているわけではなく、もっと大きく全体的なところ(空)に目線が置かれています。
そこで起きる変化というのは、「時間をかけながら熟成(醸成)され、然るべき時に、自然に目に見える形で現れてくる」もので、一瞬で魔法のように変わるというものでもなく、こちらの思惑(考え)でコントロールして起きるものでもありません。
Cさんも統合のセッションに入ってきたので、自然に「ライン」が現れてくることで、まっすぐに立てるようになり、特に頭痛に対してのアプローチをしてきたわけではありませんが、その頻度も減少してきているようです。
今回は、身体が何か「メッセージ」を持っていたようで、それを「右肩の肩こり」として表現していたようですが、それもセッション後には、きちんと納得してもらえたようでした。
最初の方に書きましたが、「まとめること(統合すること)」が目標になるので、「全体のバランスを見ながらの微調整」をすると、それを「貫く一つのライン」が出てきて、身体がそれに支えられ、余計な筋肉を働かせなくてもよくなり、結果として身体が「軽く」感じられます。
ちなみにですが、目を閉じていても、「白い光で包まれるように、明るく感じる」というのは、身体的にも、精神的にも、スピリット的にも「統合」されてきて、「より高いステージ」に進んでいることを示しています。
自然に周りの人が気づくような変化も出てきていますし、さらにその統合が進むように、次回のセッション9も楽しみにしたいと思います。
[参考]
「量子論的な視線」から、ロルフィングの「ライン」に関しての説明を、もう少し詳細に書いてみました。
みなさんのイメージを膨らませる材料になればなと思います。
「重力というエネルギーが働いている重力場に、身体という具体的な構造が存在すると、その身体の構造の中には、ラインが現れる可能性、気配が、常にあるということになります。それに観察者であるロルファーが同調できると、ラインがまるで本当にそこに実在するように現れてきて、構造の中を構成している粒子も秩序を取り戻し、構造を巡る流動体も偏りも、滞りもなく、流れるようになり、外から見える構造の形も適切な状態に落ち着きます。そして、それは瞬間的に、同時並行的に起こります。つまり、そこに観察者は、外の構造の形も、中を流れるものも、それらを構成する小さな粒子にも秩序があり、そしてそれを1つ貫く、生き生きとしたラインを観察するのです。ライン周りに、すべて要素が循環し、それらは秩序を保ちながら、消えては浮かぶ代謝を繰り返し、生きた構造としてそこに存在しています。ラインという現象を、目撃したのです。」
Yuta
( Posted at:2017年6月19日 )
Eさんのセッション7になります。
Dさんのセッション7で詳しく書きましたが、この回では口や鼻にもワークをすることがあるので、Eさんも驚かれたようですが、その効果を全身で感じてもらえたようです。
今回は、ロルファーの大先輩でもある「
田畑浩良」さんのブログ記を紹介させてもらったり、もう少し違った観点から口と鼻にワークをすることを解説していけたらと思います。
まずは、Eさんの感想を見てみましょう。
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前回以降、仕事がとんでもなく忙しい状況になり、心身ヘトヘトな状態で今日を迎えました。でもこういう状態だと、かえって変化が分かりやすいかも、と楽しみにしている部分もありました。
今までデスクワークだったのが、急に立ちっぱなしの業務になり、初日はかなり腰が痛みましたが、不思議なことに日を追うごとに痛みが少なくなって、ロルフィングのおかげかな、と思っています。
いつもの左肩甲骨の詰まりが、今日は少し違う場所に移動していて、「何か違うステージに来た感じがする」と言われました。実際、今後の仕事や生活についてビジョンがみえてきて、子供のころからのもやもやがスッキリしてきていたので、そのことをお話しました。身体はこんなに正直に心を反映するんだなあと思いました。お話したことで、さらに自分が向かうところがはっきりしてきた気がします。
腰の痛みに関しては、立ち仕事のせいだけでなく内臓からの影響もあったようでした。確かに心身ストレスフルで胃腸の調子がおかくなってました。「筋肉は問題を反映しているだけなので、元の問題を解消しないで筋肉だけほぐしても解決にならない」というようなことをおっしゃっていて、なるほどそうだよなあ、と思いました。
さて、7回目のメインは頭で、口の中や鼻の中もケアする、なかなかインパクトのある回(笑)。心身弱っているので、あれこれ考えられず、身を任せられる状態だったのがかえって良かったです。
といっても、さほど変わったことをするわけではなく、口の中の施術は歯茎マッサージみたいで気持ち良かったです。口の中も凝るんだなあとびっくり。終わった後は口の中の空間がほわっと広く、柔らかくなりました。立ってみたところ、頭が高い位置にあって軽くて、その分首もすごく楽になりました。
鼻も脳みその中の蜘蛛の巣を払ってもらった感じで、スッキリして気持ち良かったです。
その後頭を触ってもらっていると、地球のプレートが動くように頭の中がぐーっと動く感覚がありました。
まだしばらく立ち仕事が続きますが、かえって立っている時のバランスなんかを感じることができていいかもしれません。次回までよく味わっておこうと思います。
元が正されると、自然に筋肉も緩んでくれる
感想を見てみると、Eさんの元々の感覚の良さもあると思いますが、使われている表現がとても豊かで、的確だなと思いました。以前から、Eさんの感想はそうだったのですが、「自分の身体を客観的に眺めること」が、さらにできてきているのかなと感じます。
身体の方も変化してきていて、急に立ち仕事をすることになっても、きちんとその状況の変化に、身体の構造が「柔軟に対応」してくれていて、初日こそ腰痛があったようですが、すぐに「最適な状態に順応する」ことができているようでうれしいです。
特定の症状に対してアプローチをしたり、決まった姿勢が楽になるようにトレーニングするわけでもないのですが、「構造のベース(基礎)」の部分のバランスが取れてくると、自然に症状が改善してきたり、様々な環境の変化に対応できるようになってくるのが、ロルフィングの良いところだなと思います。
つまり、「元(構造のベース)を正せば、自然に他が正されてくる」ということです。
それは、「筋肉は問題を反映しているだけなので、元の問題を解消しないで筋肉だけほぐしても解決にならない」と、Eさんも書いてくれていますが、筋肉は硬くなったり、張ったりしますが、「筋肉自体」に問題があることは稀で、ほとんど「必要があって」そうなっています。
その状況に対して、筋肉を「悪者」のように扱って、一方的に力でもみほぐされるのは、筋肉としても納得いかないと思います。「こっちだって、必要があって硬くなっているんだし」と、筋肉の不満の声が聞こえてきそうです。
「マッサージを受けてもすぐに元に戻ってしまう」というクライアントさんも多いのですが、それはまさにそういう状況で、筋肉も納得していないですし、元の問題も解決されていないので、何度も何度も同じような状態に戻ってしまうのです。
時間はかかるかもしれませんが、ロルファーのガイドで、自分の身体とゆっくりと向き合って、少しずつ自分の身体の状態に気づいていくと、元の部分から整っていってくれるので、そうすると筋肉が不自然に緊張することも、身体が痛みや違和感という「メッセージ」を出し続ける必要もなくなってきます。
そしてとても大切なことですが、「元を正そうとするのは、とても根気と時間が必要なプロセスである」ということも覚えていてほしいことです。
それはまた後で、ロルファーの先輩の田畑浩良さんのブログ記事も紹介しながら書きたいと思います。
口は全身の「場所」を反映し、鼻は「深さ」と共鳴している
ここからは、セッション7で口や鼻へワークすることを、少し違った角度から説明していきます。
上の図は、温泉などでよく見かける「足の裏の反射ポイント」を示しています。
「足の裏」には、「全身の場所」を「反映」しているポイントがあり、それを元にした「足つぼマッサージ」であったり、「リフレクソロジー」という施術方法があるのは、みなさんよくご存知かと思います。
実はこれが「口の中(厳密には「歯」)」にもあるというのが、下の図になります。
自分がロルフィングの口へのワークを受けている時にも、自分が実際にしている時にも、「そのポイントを押されると、右の腰がうずくな」というような、「特定のポイントを触れると、全身のある部分が反応する」という実感を持っていました。
今回改めて調べてみると、上のチャートを見つけたのですが、やはりこういう「関連」があるという考えもあって、それに対して施術をする方法もあるようです。(とは言っても、その関連を「狙って」ワークをするということは、個人的にはしていません。あくまで自然に手が集まって、そして自然な反応が引き出されてくるようにしています。)
では、「なぜ口が全身を反映するのか」ということを、少し考えてみたいと思います。
僕たちの先祖がまだ海にいた頃は、「世界と出会う(向き合う)」ところは、「眼」ではなく「口」でした。そこの部分には感覚が集中していて、「口を通して」、世界を深く、鮮やかに「認識」していました。(魚は前にしか進まず、その先端は眼ではなく口です。口が一番最初に世界に「触れる」のです。)
その「名残」なのか、生まれたばかりの赤ちゃんは、魚のように口をパクパクとさせて、お母さんの乳首を探り当てます。赤ちゃんにとっての「世界のはじまり」は、「母親という他人との出会い」であって、それは「口」によって行われています。(「視覚」によって、乳首の場所を発見するのではなく、「嗅覚」と「触角」によってです。)
次第に「眼」が、世界と向き合う際の「メインの窓口」にはなりますが、それでも手に取ったものを「口」に運び、それを「舐め回す」ことによって、ものの「奥行き」を学んでいきます。自分で「見たもの」の情報と、それを「舐め回す」ことで得られた情報とを「一致」させていく作業が、子どもが「何でも口に入れたり、舐める」行為というわけです。(そしてそれが、ものを「立体視」することを確立させていき、「差」を「認識」し始めて、「意味」を発見していくようになります。)
そういうことで、「口の中」というのは、「認識のはじまりの場所」でもあり、「わからないものを、口の中で舐め回す」ということは、「世界(わからないもの)を全身で感じる(口の中で舐め回す)」ということでもあるのです。
つまり、生まれて間もないこどもにとっての「口の中」は、「小さな全身」でもあるとも考えられます。
青年が、わからない世界、文化に「飛び込み」、そして全身で未知の体験をすることで、成熟した大人になっていきますが、生まれたばかりの子どもは、口の中に世界を「放り込み」、そしてそれを全身で経験するのです。
その名残があるので、「口の中は全身の場所とリンク」していたり、口の中を実際にワークをしていると、自分の「こどもの頃の記憶(原風景)」がふと浮かんでくることが起きるのかなと、個人的には感じています。
このように、「口」は「全身の場所」を反映しているのではないかと考えているのですが、「鼻」というのは「全身のレイヤーの深さ」と共鳴しているのではないかと感じています。
この図は、首を縦と横にそれぞれ輪切りにしたものを、「レイヤー(層)」によって色分けをして、その関係性を示しています。
ロルフィングでは、この「レイヤー」という概念がとても重要で、ロルフィングを始めたアイダ・ロルフさんも、「そのレイヤーに留まり続けなさい」や、「もう一つ下のレイヤーまで沈みなさい」などと指導をしていたようです。
身体の構造は、「レイヤー」の構造をしていて、それはよくオレンジに例えられたりします。
つまり、表面はオレンジ色の皮(皮膚)で覆われていて、そのすぐ下には白色でふかふかしたもの(脂肪)があります。その厚さは、みかん、オレンジ、グレープフルーツなど、柑橘類の中でも違っているように、人間の身体でも違いがあります。
その皮をむくと、白い糸のようなものが網目状に広がっています。これが人体では「血管(神経)」に当たります。
それもきれいに剥がすと、おいしそうな実のかたまり(筋肉)が現れます。その実は、皮のような膜(筋膜)で仕切られていて、それをめくると、果肉の集まり(筋繊維)があります。それをプチっとつぶすと、中から果汁(体液)があふれ出します。
このように、人間の身体も幾重にも重なった「レイヤー(層)」があり、それぞれがつながり合って、連携し合いながら、僕たちは日々生きています。
上の図で見ても、喉の辺り(図では上方向)の表層の膜にアプローチすると、首の後ろ(図では下方向)にもその膜はつながっていて、「レイヤーを通して」変化が起きることがわかるかと思います。
こうしたいくつものレイヤーが、身体全体を覆うようにあるので、「一つの特定の筋肉」などに囚われることなく、「レイヤーとしてのつながり」に対して働きかけをすることが大切で、そうすることで、首に触れているだけでも、膜としてのつながりがある腰に変化が起きることもあるのです。(ピンポイントで「押す」というよりも、レイヤーを「捉える」という感触のタッチを使います。)
セッション7で「鼻」にワークをすると、「背中」や「腰」の痛みや違和感が取れることがありますが、それは鼻にある「ゲート」と、全身を覆う「レイヤー」との関連ではないかと感じています。(上の図では、「ゲート」は赤丸で示されています。)
実際に、鼻の中に指をゆっくりと入れていくと(ゴム手袋をして、ジェルを付けています。)、自然に止まるポイントがあって、それが「ゲート」になります。ゲートに行き当たったら、そこで「無理矢理押したりせずに、ゆっくりと待っている」と、自然に「ゲートが開き」ます。
その「ゲートが開く」瞬間に、全身の緊張が「ふわっと抜ける」感覚があり、その際に違和感や、痛みが変化することがあります。
大体そのゲートは3つほどあって、その3つの「ゲートの深さ」と、身体の「レイヤーの深さ」とが、「共鳴」しているのではないかというのが、個人的に考えていることです。
10シリーズを続けていくと、Eさんのように自然に痛みがなくなっていくのですが、それでも残ることがあります。
「最初の頃にあった腰の痛みが大分ましになったけど、最後の芯がまだあるんですよね」という場合や、「ズーンと響くような肩こりが、ピンポイントであります」だったり、「頭の深いところに、一箇所、痛いような、締め付けられる感じがあります」という時に、このセッション7の「鼻のワーク」が有効に働いてくれることがあります。
こういった場合は、身体の「深いレイヤー」に「制限」があることが多く、セッション7で鼻にワークをして、3番目の深いゲート(図の右側の赤丸)がうまく開いてくれると、その瞬間に痛みがましになったり、なくなったりすることがあります。(深いレイヤー上にあった「部分的な」制限が、鼻の深いゲートが開くことに「共鳴」して、深いレイヤーが「全体的に」緩み、それによって「部分的な」制限も取れるということです。)
Dさんのセッション7の時には、口や鼻へのワークを「解剖学的」に説明しましたが、今回は全身の「場所」と「深さ」との関連を書いてみました。
あくまでこれは僕個人の考えなので、間違っているところや、足りないところ、言い過ぎなところもあるかと思います。一つの考えとして参考にしていただけたらうれしいです。
ロルフィングを受けて、「人生の流れに乗る」ということ
最近の健康に関する世の中の流れは、「巻くだけで骨盤矯正」や、「5分で長年の痛みがなくなった」という、よく見かける宣伝広告でもわかるように、「時間をかけない(プロセスを経ない)」ことが、「過剰に重要視」されているように感じています。
ロルフィングは「治療」ではなく、目的は「痛みの減少、または除去」ではありません。
先にも書きましたが、ロルファーのガイドの元で、10シリーズという「プロセス」を経ることで、自分の身体の状態に、自分で「自覚的」になっていきます。そして身体の構造も整ってくるので、自分を支えてくれる「ライン」にも乗ることができて、「自然治癒力(自己調整力)」も適切に働いてくれるようになります。
今回の感想の中に、「実際、今後の仕事や生活についてビジョンがみえてきて、子供のころからのもやもやがスッキリしてきていたので、そのことをお話しました。身体はこんなに正直に心を反映するんだなあと思いました。お話したことで、さらに自分が向かうところがはっきりしてきた気がします。」という部分がありますが、重力空間の中で、最適に身体の構造を取れるようになってくると、こういった変化を感じることもあります。(こんなことを伝えてくれることもあるので、僕はロルファーをしているのだと思います。)
「ロルフィングは、治療ではなく、何をしているんだろうか?」ということを、ロルファーとしての大先輩でもあり、とても尊敬している「田畑浩良」さんが、ブログの中で書かれている記事があったので、全文を紹介させていただいて、今回は終わりにしようかと思います。
みなさんも、どんな思いが巡ってくるかをゆっくりと観察してみてください。
人生の流れに乗る
山陰から通ってくれているクライアントがどんどんいろんなことに気づいてきて,それをシェアしてくれた。音楽教師でピアノ演奏家でもある彼女は,練習のし過ぎで身体を痛めてしまったことをきっかけとして,セッションに来ている。
彼女は,身体が整ってくるにしたがって,感覚も回復してきて,嫌な場所にいると我慢できないし,何か不自然なことに対して,より敏感になったという。それによって,方向性にズレがあると,身体が教えてくれるようになったという。
ロルフィングは,身体の不具合が調整されたり,パフォーマンスが向上することも勿論大切だが,仮にピアノが急に前のようなパフォーマンスで弾けるようになったとしても,身体を痛めるような使い方や演奏や練習に対する考え方や姿勢が変わらなければ,意味はないだろう。付け焼き刃でパフォーマンスを維持するより,せっかく身体から痛みというサインが出たのだから,生き方そのものを修正しているという見方ができなければ同じことのくり返しになってしまう。
どこにフォーカスして生きるかは人それぞれだが,それぞれの人生の方向性や流れがあるとすれば,それに乗っているときに,人は身体を忘れてしまう感じかもしれない。何か不自然さを身体が教えてくれる準備があれば,すぐに軌道修正することができる。
身体のセンサーとして機能してそれを無視しなければ,人はよくわからない占い漬けやセミナー中毒になったり,人からだまされたり,できるけどしたくないことにやっきになったり,身体を痛めることをわかっていながら,中毒になったりすることもないだろう。
ロルフィングの私が引き出したい最も大切な変化は,この身体のセンサーの感度を上げ,身体と一致することで,その人自身の人生の流れに乗る手助けになればいいなと思う。
違和感がなくなることが目的ではない。それを細かく感じ取ることができるように手助けする。つまり,治療ではないということだ。
Yuta
( Posted at:2017年6月14日 )
Dさんもセッション7に入りました。
今まで整えてきた身体の構造のちょうどいい位置に、ボーリングの球ほどの重さがある「頭」を「乗せる」ことができるかが、一つのポイントになります。
そうすると、身体を支えてくれる「ライン」の流れが、その頭を下からサポートしてくれるようになり、ラインが「頭頂の上まで」抜けていくことができます。
またもう一つのポイントとして、「頭そのものの構造自体に、歪みやいびつさがある」と、それが「他の身体(特に骨盤)が『さらに変化する可能性』を制限してしまう」ことにもなるので、セッション8〜10でさらなる変化を引き出していくために「下準備をする」という意味合いもあります。
さて、どんなセッション7になったのか、Dさんの感想を見ていきましょう。
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今回は「首」のセッションとのことでしたが、首に直接触れたのは後半のほんの数分だけでした。
とにかく今回は今までで一番びっくり&衝撃でした。
ここまでやるの?
まず、口の中。
こんなところにも筋肉はあるんだなと。
何か所かをゆっくり押す感じですが、終わった後、口を閉じていても、いつもより空間があるように感じました。
あと鼻の穴。
自分で鼻をほじるときでもそんなに深くは突っ込まないよ、っていうところまで指が入ってました。
痛くはないのですが、ちょっと怖かったです。
でも鼻からの呼吸がすごく楽になりました。
そして、鼻穴も右と左で息の吸いやすさが切り替わるのもおもしろかったです。
今は左のほうが通りが良いようです。
ちょうど調子が悪いと感じているときのセッションだったので、終わってからとてもスッキリしました。
体調がいいとやっぱり気分も良くなりますね。
感想の中に「口の中」、「鼻の穴」とあるので、驚かれた方もいると思いますが、僕も実際にロルフィングを受けた時には驚きました。笑
セッション7では、「頭蓋骨の構造が整う」ことによって、「全身の構造がそれに『共鳴して』変化する」ということが起こります。そのために「口の中」や「鼻の穴」にワークをすることがあります。
もちろんきちんとした「訓練」を受けていますし、それをする「理由」もあるので、「歪んだ誤解」を生まないように、丁寧に解説をしていきたいと思います。
複雑な骨の集まりである頭蓋骨
まずは基本的なこととして、「頭の骨は、たくさんの骨が集まってできている」ということを知っていてほしいなと思います。つまり、「頭蓋骨」というのは「総称」であって、「一つの骨ではない」ということです。
「骨盤」も同じように総称であって、腸骨、恥骨、坐骨が、成人になって「癒合した」寛骨と、いくつかの椎体(背骨の一つ一つの骨)が「癒合した」仙骨と、さらに尾骨を合わせたものを「骨盤」と呼んでいます。「骨盤」という一つの骨があるわけではありません。
さらに寛骨も仙骨も、「癒合した」という言葉からもわかるように、元から1つの骨であったわけではなく、生まれたばかりの子どもの頃は、「それぞれが独立した」いくつかの骨だったのですが、それが成長と共に、1つの骨に「合わさって(くっついて)」いきます。さらにそれらが「まとまって」いくことで、よく知られている「骨盤」になるわけです。
生まれる時に「小さな骨に分けておく」ことで、産道を通る際に、「一瞬、潰れる(形を変える)」ことが可能になり、それによって「母子にかかる負担を減らす」ことができます。さらに生まれた後も、何かにぶつかったり、転んだ際に「ショックを吸収する」こともできるようになります。
ということで、子どもの頃の骨の数の方が、成人した大人よりも「多い」というのも、意外に知られていない事実かもしれません。(大人の骨の数が206個に対して、生まれたばかりの子どもは300〜350個ほどあります。)
これは頭蓋骨の下顎の骨を外した状態で、下から見ている図です。
色分けされていますが、それぞれが別々の骨になっていて、その間のギザギザしたものが「縫合」と呼ばれる「関節」になります。教科書的には、この縫合の関節は「不動関節」に分類され、「動きがない」と言われています。
しかし、それには「規則的で、微細な動き」があると考えているボディワーク、セラピーもあって、僕もその考えを支持しています。
Aさんのセッション7の時にも書きましたが、それはまるで「地球のプレート同士の動き」のように、ゆっくりとした動きを繰り返しています。
「実際にどう動いているのか」に関しては、「クレニオセイクラルセラピー(頭蓋仙骨療法)」などに詳しいのですが、僕はそれをきちんと学んではいないので、ここには詳しくは書きません。
ここで覚えていてほしいのは、「頭蓋骨はいくつかの骨で構成されていて、動きがある」ということです。
上の図を見てみると、口の中の上顎の部分だけでも、色が分かれて、いくつかの骨が合わさってできているのがわかります。色こそ分かれていませんが、真ん中には上顎を左右に分ける縫合の線も観察できます。
つまり、「(頭蓋骨だけでなく)口自体もいくつかの骨によって構成されていて、わずかに動いている(動くことができる)」ということになります。
口も鼻も、緻密な部品の集まり
これは、頭蓋骨を左右に分けるように切断して、鼻の部分を中から見ている図です。
ここでも、「鼻を構成しているのは、1つの骨ではない(だから、多少の動きが可能になる)」ということがわかるかと思います。
ちなみにですが、眼球が入っているくぼみの「眼窩」も、いくつかの骨が合わさって構成されています。(後で、詳しい図が出てきます。)
大切なことは、頭蓋骨は「立体的なジグソーパズル」のように、「いくつかの骨が合わさって成り立って」いますが、「眼、鼻、口などの各感覚器自体も、複数の骨によってできている」ということです。
眼のパーツ、鼻のパーツ、口のパーツがあって、それをパズルのように合わせて頭蓋骨ができているわけではなくて、「複雑なパーツを重ね合わせながら、各感覚器が構成されていて、それらがさらに緻密に組み合わさることで、全体として頭蓋を構成している」のが、とても興味深いところです。
では、「なぜ、いくつかの骨が組み合わさりながら、眼、鼻、口が構成されているのか?」という疑問が出てきます。
それには「骨の成長の仕方」と、「感覚器は、様々な感覚情報を受け取る精密な場所」というのが関係しているのではないかと、僕は考えています。
「成長(変化)」する構造
まずは「骨の成長の仕方」についてですが、手足のような四肢の「長い骨(長管骨)」と、頭蓋骨のような「平べったい骨(扁平骨)」では、骨の成長の仕方が違っています。
四肢の長い骨は、それぞれの端が反対方向に伸びていくと、「長く」成長できるので、骨の両端には「骨端線」というのがあって、そこの部分がそれぞれの方向に少しずつ伸びていきます。つまり1つの骨だけでも、どんどん成長していくことができます。
それに対して、頭蓋骨は「(風船が膨らむように)容量を増やすように」成長していかなければいけないので、「1個の骨だけ」ではそれが難しくなります。
もしも「柔らかい膜」のようなものであれば、中から空気を入れたりして「膨らませる」と、容量を増やすことができますが、「硬い骨」はそうはいきません。
そういうことで、生まれたばかりの子どもの頭蓋は、上の図のように「硬い骨」がいくつかあって、それらを「柔らかく伸び縮みができる膜」によって「つなぎ合わせる」ことで、頭の「丸い形」を形づくっています。
そこから「中に入っている脳の成長」に合わせて、膜の部分が「膨らみ」、骨の端の部分が少しずつ「(上塗りするように)骨化」していくことで、「容量を増やす」ように成長していけるのです。
「なぜ、頭蓋骨が『いくつかの骨によって』形成されているのか」という疑問に対しては、「頭蓋骨の成長の仕方」が関係しているということがわかりました。
繊細な感覚を生み出す、精密な構造
ここからは、「ではなぜ、眼、口、鼻も『いくつかの骨によって』構成されなければいけないのか」ということを説明していきたいと思います。
それらの場所は「感覚器」が位置する場所で、「様々な微細な刺激を受け取らなければいけない」役目があります。
そのために、刺激を受け取る「センサー」と、それを脳に伝える「神経」と、センサー自体の位置調整をする「筋肉」と、そのシステム全体が機能するための栄養を運ぶ「血管」などを、「細かく繊細に配置する」必要があります。
セッション7では、あまり直接的にはワークすることはありませんが、わかりやすくするために、ここでは「眼」の構造を例に考えてみます。
眼には、センサーの役割をする「眼球」があり、その周りに、神経、筋肉、血管などが配置されています。その精密で、芸術的でもある構造を、図を見ながら確認していきましょう。
眼球が位置する「眼窩」の図ですが、これほど多くの骨が関わり合っています。
眼球の周りに、細かな筋肉、神経、血管があります。
眼窩から眼球を外して、筋肉と神経だけにした図です。
それぞれの骨の小さな穴から、神経が出ているのがわかるかと思いますが、こうした神経の「微妙な位置関係」を維持しながら(どれかが過度に「引っ張られたり」、何かに「挟まれたり」しないように)、「眼の機能」ももちろん変わらないままに、「成長(容量を大きく)」しようと思うと、「一つの骨によって作られたくぼみ(眼窩)」では難しいのではないかと思います。
頭蓋骨を形成している「扁平骨」であっても、成長する際には、「全体が均一に伸びる」わけではなく、「端の部分が、少しずつ上塗りされるように伸びていく」ので、「いくつかの小さい骨のパーツに分ける」ことによって、「それぞれのつなぎ目を少しずつ変化、成長させながらも、全体としての複雑な構造と機能は維持する」ことができます。
そういうことで、他の感覚器が収まっている「口腔」も「鼻腔」も、わざわざ「骨のパーツを細かく分けて」、それぞれの構造を作り上げることで、「精密な構造」と「正確な機能」を兼ね備えながら、それらが「頭蓋というエリアに、それぞれの独立を守りながら、まとめて配置できて、なお成長もする」ことが可能になっているのです。
「生きている」構造に、触れることで「変化」を促す
「眼、口、鼻などがいくつもの骨で成り立っている理由」は、「それらが複雑な機能を担っているので、構造も複雑になり、しかもそれが成長(変化)もする構造でもあるから」ということになり、この「頭蓋骨」という構造は、「生きている構造」であるというのが、とても大切なポイントです。
大人になって、目に見える骨の成長が止まってしまったとしても、「縫合」という「動かない関節」になるわけではありません。骨自体も「生きている」ので、常に「代謝」を繰り返していて、何年かすると「全く違う骨に置き換えられる」のが普通です。「ギザギザした縫合の関節のつなぎ目」も、そうやって「代謝(長い期間では『置換』)」が行われているので、「頭蓋骨という全体の構造」も「動き」があります。
そんな生きている、複雑な構造をした「頭蓋骨」の中の、「口腔(口の中)」、「鼻腔(鼻の穴)」を、「繊細な意図を持ったタッチ」でアプローチをすると、それが「反応」してくれます。そして、「全体の構造の歪み」が整っていくことが、自然に起きてくるのです。(実際のクレニオセイクラルセラピーでは、全身の問題に対しても、頭蓋骨を中心に調整したりします。)
話が細かくなりましたが、これがセッション7で「口の中」や「鼻の穴」にワークをする、「解剖学的」な説明になります。
繰り返しになりますがまとめてみると、「頭蓋骨はいろいろな骨が複雑に組み合わさってできていて、口や鼻自体も、パズルのようになっています。この構造は生きていて、変化し続けているので、その骨のつなぎ目の関節である縫合には、動きがあります。それを繊細なタッチで調整することで、頭蓋全体の構造のバランスを取ることができる」ということです。
「後頭下筋群」という、頭のポジションの調整役
「解剖学的」な説明をもう少し続けてみます。
上の図の口や鼻の奥の方を見てみると、頭蓋骨の「後頭骨」と「上部頸椎」とを結んでいる「後頭下筋群」があって、構造的にも「距離が近く」、骨、筋肉、膜を通しての「つながり」もあります。
つまり、「口の中(口腔)」や「鼻の穴(鼻腔)」の構造が変化することで、首と頭の境目にある「後頭下筋群」も変化する可能性があるということになります。
この後頭下筋群はとても大切なエリアで、「位置センサー」でもある「固有受容器」が、身体の中でもかなり豊富にあります。他には「足部」にもたくさんあるのですが、それは身体が「その部分の位置関係を、詳細に知りたがっている」ということでもあり、「バランスが優先的に取られていなければいけない場所」ということも意味しています。
足部であれば、身体が地面に接している「土台」部分なので、そこが不安定であったり、歪んでしまうと、その上の構造はすべて崩れてしまいます。そのためにセンサーを多く配置して、常にバランスが取れている状態に保たれています。
後頭下筋群の場合は、脳や様々な感覚器官が収められている「頭」を、常にたくさんのセンサーでモニターしています。ウトウトと寝てしまった場合に、もしもセンサーが少なければ、大切な頭をぶつけてしまって、ダメージを受けてしまうかもしれません。「頭の保護」のためにも、後頭下筋群には、豊富な固有受容器が必要なのです。
「頭(視線)の水平」が最優先
「ふとした時に頭をぶつけるの避けるため」などの極端な場合ではなくても、後頭下筋群の固有受容器は、常に働いています。それは、「頭(視線)を水平に保つ」ためです。
身体の構造は、事故やケガによって大きく崩れることがあったり、日々の姿勢や動きで、慢性的に歪んでしまうことがあります。それでも、人としては「頭(視線)を水平に保つ」ことが、優先順位としては上になるので、「頭よりも下の構造がどんな状態になろうとも、頭(視線)を水平に保とうとする」のです。
「頭(視線)を水平に保つ」ことができると、「視野が広く」なり、「距離感がつかみやすく」なります。人間がまだ「捕食される危険」があった時の名残でもあるのでしょうが、それは「とっさに危険を回避する(逃げる)」ことに役に立ちます。足の速い動物が走っている動画を見ると、「頭はほとんど動いていない」ことに気づきます。(一流のスポーツ選手も、同じような特徴があります。)
いずれにしても、「危険を回避する」ためには、「頭(視線)を水平に保つ」ことが大切で、それを「微調整」しているのが「後頭下筋群」ということになります。
頭が首から自由になるような状況を「セッティング」する
今までのセッションで、身体の構造を段階的に整えてきましたが、「後頭下筋群が緩みにくい(もしくは緩んでも、すぐに戻ってしまう)」ことがあります。それはまだ「頭よりも下の構造が歪んでいる」ので、「頭(視線)を水平に保つ」ために、「後頭下筋群が補正している」ためだと考えることができます。つまり、「必要があって硬くなっている」場合があるということです。
そして、ようやくセッション7の頃になると、「頭よりも下の構造」も整ってくるので、「後頭下筋群が(補正するために)硬くなる必要」がなくなってくるので、「直接、後頭下筋群へアプローチ」しても効果的ですし、「間接的に、口腔、鼻腔からバランスを取る」ことでも、「後頭下筋群がリリースされる」ようになります。
そうして後頭下筋群の制限が取れると、「頭が首から解放」され、「ちょうどいい位置に、頭を置く」こともできるようになり、「重い頭が、身体を支えてくれる上向きのラインの力によってサポートされる」ようになってきます。
いよいよ、ラインが「頭頂の上まで」抜けていくようになります。
今回は、「なぜセッション7は、口の中や、鼻の穴にまでワークをするの?」という疑問に対して、「口や鼻がある、頭蓋骨の構造は、緻密で、生きていて動きのある」ものであるので、そこに微細なワークをするだけでも、頭蓋骨全体の構造が反応して、バランスが整っていってくれることを説明しました。
その頭蓋骨に起きた変化によって、それ以外の全身の構造が、「共鳴するように」変化することがありますし(触れているのは首、頭だけでも、腰の違和感がなくなることもあります。)、「(今後のセッションで)さらに変化する可能性」も得ることができます。
さらに、口や鼻へのワークは、頭蓋骨と背骨のつなぎ目にある「後頭下筋群」にも影響して、そこがリリースされることで、「頭が首から解放」され、「身体の上に頭を乗せる」ことができるようになります。そのことで「ライン」のサポートを、より感じやすくもなります。
いよいよ身体を上下に貫く「ライン」もはっきりと現れてきて、身体が軽く、自由に感じられるようになってきています。さらにそれが感じられて、Dさんの身体の可能性が引き出されてくるように、ロルファーとしてガイドしていけたらと思います。次回からの「統合のセッション」も楽しみにしています。
Yuta
( Posted at:2017年6月 9日 )
山に囲まれた山形ですが、新緑の緑の色が日に日に深くなってきています。この時期になると、山菜も出てきて、身近にその恵みをいただく機会があって、自然豊かなところに住んでいる幸せを感じています。
さて、6月の中旬に神戸に出張しようかと思っています。
今回は、2箇所でセッションさせていただきます。どちらも三宮駅から徒歩10分ほどの場所で、予約をいただいた方には場所の詳細をお知らせさせていただきます。
6月は梅雨の時期で、空気も湿度が高く、ムシムシと「こもる」感じになりますが、身体も呼吸が巡らずに「こもる」ようになってしまいます。身体の滞りを解消して、スムーズに夏に移行していくお手伝いができればと思います。
ロルフィングが必要な方はご連絡ください。
(予約状況は5月31日現在です)
6月9日(金)
① 9:00 - 11:00 ○
②11:00 - 13:00 ×
③14:00 - 16:00 ×
④16:00 - 18:00 ×
⑤18:00 - 20:00 ○
6月10日(土)
① 9:00 - 11:00 ×
②11:00 - 13:00 ×
③14:00 - 16:00 ×
④16:00 - 18:00 ×
⑤18:00 - 20:00 ×
6月11日(日)
① 9:00 - 11:00 ×
②11:00 - 13:00 ×
③14:00 - 16:00 ×
④16:00 - 18:00 ×
⑤18:00 - 20:00 ×
【予約方法】
①電話 090-2954-8207
【セッション料金】
12,000円
( Posted at:2017年5月31日 )
モニターCさんのセッション7です。
感想の中にもありますが、10シリーズも終盤に差し掛かり、「早くエンディングを迎えたいような、このままずっと続いてほしいような」気持ちが、Cさんに出てきたようです。
ロルフィングを「する側」の僕もそれは同じで、「終わるのがもったいないな」と感じることがあります。
でも、ロルフィングは「10回」という回数を決めて、「終わること(閉じること)」を設定してあります。そして、時間という「プロセス」をかけながら、「10シリーズという物語」を通り抜けるようなものでもあります。
映画でも、小説でも、演劇でも、「ある物語を通過する」と、その「前後」では、何か世界の見え方が違っていたり、重さの感覚が変わってしまって、妙に自分が軽く感じたり、時間が伸び縮みしたりします。
それは、自分に「変容」が起こったからです。
「良い物語」にはそんな力があります。
今までいろいろな方々に10シリーズをさせてもらいましたが、それぞれに全部違っていて、「10シリーズの前後」では、「違った人間に生まれ変わった」ように感じる方もいました。
受けていただく方にとって、「10シリーズという経験」が、「より自然な自分(身体)」への「変容の機会」になることができれば、ロルファーとしてとても幸せです。
それでは、Cさんのセッション7の感想を見てみましょう。
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7回目
衝撃の‼首と頭の解放
ロルフィングの10シリーズも今回終わるとあと3回
なんだかとてもさみしい感じ
早く10シリーズ終えての自分の変化もみてみたい‼との気持ちも大きいのですが今までの1回1回の密なセッションやその後の変化を思い返すとずっと続いて欲しいようなそんな気持ちです
最近よく全身の映る鏡をみます
以前はフォームのチェックが主だったのですが最近は自然に姿勢のチェックをしています
そして『今日も大丈夫』と満足しています
そんななか迎えた7回目
実は噂には耳にしていたのです
『でも...まさか?ないでしょ』と思ってましたがそのまさかでした
でも不思議と素直に受け入れ(笑)結果的にはスッキリ!!です
口に関しては20年も前から顎関節症です
スムーズに開かない日もあります
それは事前に大友さんに伝えたのですが右側から始めて左に移ると直ぐに『左側何かしましたか?』と聞かれたのです
別に関係ないかな、と思って事前に話さなかったのですが左に手強い親知らずが生えてて今は痛みはないもののたまに動いているらしくしかも複雑な生えかたをしているために抜くのも大変で経過観察中なのです
口を大きく開いたわけでもないので大友さんもそれに気づくなんてすごいナァって改めて思いました
体の反応って不思議ですね
その日親知らずが少し疼きましたが翌日には治りました
それとセッション中に顔のマスクを外すというイメージが浮かび千と千尋の神隠しのカオナシのような感じのイメージ
不思議でしたが大友さんに聞くと今回のセッションにはそういう意味もある事を聞いて納得でした
手が集まって、それで「身体の言いたかったこと」がわかる
ロルフィングは、身体と「会話」をするようなもので、いろいろと「質問」をすると、その時に身体の「感じていること」や、「してほしいこと」が、少しずつ見えてくるようになります。(そして、そのことによって「自然治癒力」が適切に働いてくれるようになることを、
Eさんのセッション6の時に書かせてもらいました。)
ロルフィングの認定トレーニングを終えてから5年が経ちましたが、「言葉を話さない」身体とのコミュニケーションは、まだ「流暢」というレベルには至っていないと思っています。いろいろと試行錯誤をしながら、語学の単語や文法を学ぶように、身体の「仕組み(具体的には、解剖学や生理学など)」について理解していっています。
そうやって身体と会話していくと、なんとなく会話の「流れていく方向」というのがあって、それに従って進むと、思いもかけないことが起こることがあります。
痛みがある場所とは違うところに、なぜか「手が集まる」ことがあったり、何も聞いていないのに、古傷がある場所や、最近痛みや違和感があって気になっていたところに「手が導かれる」ことがあって、そこに手を置いていると、身体が反応を始めて、驚くような大きな変化を見せてくれます。
自分で何かを起こそうと意識しているわけではないのですが、その瞬間瞬間の流れに乗っていくことができると、「気づいた頃」には、「身体の言わんとしていること(してほしいこと)」が見えてきて、そこに手が集まっています。
「なんでそこがわかったんですか?」と聞かれることもありますが、「なぜかはわかりません。ただ身体がそこに導いてくれたような気がします。」というのが、正直な僕の気持ちです。
セッション7では、口腔(口の中)と鼻腔(鼻の中)にもアプローチをして、頭蓋骨の構造のバランスを取っていくのですが、今回、Cさんの口の中にワークをしている時に、自然に導かれるように進んでいくと、「手強い親知らず」に辿り着きました。
このように、身体に触れて、身体が導いてくれるのに従うようにロルフィングをしていると、自然に身体が反応してくれて、「あるべき最適な場所(状態)」に収まっていってくれます。勝手に身体の各組織が動き出し、それぞれにとって一番居心地の良い状態に落ち着くのです。(こういった反応を、「身体の自己組織化」と呼びます。)
「こちらが考える正しい場所(状態)」に、こちらの力を使って「矯正」するわけではありません。「身体自らが望んだ場所(状態)」に、「自らで変化(変容)」していくのは、「自然の智慧」というか、「生命の神秘」というか、そういったものを「目撃(観察)」しているような感じで、いつもそれが起こる度に、不思議に思うと同時に感動します。
そういった経験を重ねていくと、その何度も観察した「自然で最適な状態」の感覚が、自分の「手の中に蓄積され、記憶される」ようになって、なんとなく触れただけでも、「ん、何か不自然だ」とすぐにわかるようになってきました。身体が「自然で最適な状態」を教えてくれたことで、逆に「違和感」であったり、「不自然」の感覚に、自分の身体がすぐに反応するのです。
「左側何かありましたか?」と、口の中を触っている時に聞いてみたのは、そういった「違和感」を感じたからです。
こういったことは頻繁にあって、そう聞かれたクライアントさんが、「実は...」と思い当たる節がある場合もありますし、「いや、特に何も...」と、何をこの人は突然そんなことを聞くのだろうと不思議そうな顔をされることもあります。
僕個人としてはまだ経験はないのですが、身体を触れている時に「違和感」を感じて、クライアントさんに聞いてみると、特に思い当たる節はなかったのですが、「一応、病院で検査をしてきてもらえませんか?」とお願いをしてみた結果、「病気(または腫瘍)」が見つかったケースがあると、知り合いのロルファーさんから聞いたことがあります。
そんなことを聞いたり、先に書いたように、無理な力は加えていないのに、自然に手が集まるところに触れているだけで、身体が適切な場所に自ら変化していくのを目の当たりにすると、人間の「直感」の力のすごさに驚かされます。(正確には、「自分の直感」というよりも、「何か大きな存在(自然、宇宙の摂理、ブループリント、内なる智慧など、いろいろな言い方があります)」に導かれているようにも感じます。)
少し話は違うかもしれませんが、ロルフィングを学ぶクラスのデモの時に、先生が「あなたは以前誰かにロルフィングを受けたことはある?」とモデルクライアントに聞いて、それに対して、昔受けたことがあって、それが誰なのかも教えてくれました。そうすると、「なるほど、だから身体にとても秩序があるのね。でも以前、鎖骨下筋へのワークは残していたようね。」と、先生が言ったことがありました。
ここですごい点は2つあって、まずは「以前にロルフィングを受けた身体なのかどうかが、触れた感触でわかった」ということと、それを踏まえた上で、「そのロルファーが残しておいた仕事が、触れることでわかった」という点です。
ロルフィングを受けた身体は、身体自らが「自己調整、自己組織、自己統合」する働きがあって、それによって身体の「構造」にも、「中身を構成するもの」にも「秩序」があります。逆に「ロルフィングを受けていない身体(ランダムな身体)」だったり、「何か問題がある身体」だと、それを感じることはできません。
そこまでならなんとかわかりそうな気もしますが、そこから「残しておいた仕事」までを捉えるには、まだまだ僕には時間がかかりそうだなと感じています。
ロルフィングのそういった「繊細で、洗練された技術」というのは、とても「シンプル」でありながらも、「パワフル」な変化を引き出すことができます。
そして、それを習得するのは「簡単ではない」のですが、きちんとした訓練を受けると「学び、修める」ことができるものです。
それを僕の尊敬するロルファーのエドワード・モーピン(Edward Maupin)さんは、下のような文章で表現しています。
"It is simple, but it is not easy. It can be learned."
(それはシンプルだが、簡単ではない。そしてそれは学ぶことができる。)
- Edward Maupin
これは多くの「職人」と呼ばれるような職業の人たちに当てはまることだと思いますが、ロルファーとして、これからも真摯に身体に向き合って、そこからたくさんのことを学んでいこうと思います。
「マスクを外す」ということ
「20歳の顔は自然から授かったもの。
30歳の顔は自分の生き様。
だけど50歳の顔には、あなたの価値がにじみ出る。」
- ココ・シャネル
どきっとする言葉だなと思います。30歳を超えた僕は、「自分の生き様」が、どう顔に出ているのでしょうか。そして他の人には、どう写っているのでしょうか。
自分の顔というのは、一度も「自分で見ること」はできません。それでいて、そこには否が応でも「その人らしさ」が、「表現」され続けているのです。
「私は今、こんなことを考えています」であったり、「私はこんな人間です」と、顔を持っている時点で、それを他人に「晒し続けている」ことになります。
それほどまでに、顔はその人を「形づくる」ものでもあるので、顔を褒められるとうれしく、それを否定されると、「自分の人格(または存在)」までも否定されたような気持ちにもなってしまいます。
そんな「顔」という存在は、人間と動物では「機能」が違っていて、その違いが「人間らしさ」にもつながっています。そのことを、人間の進化の歴史を振り返りながら、説明していこうと思います。
人間の先祖は、ある時点から「生存すること」よりも、「コミュニケーションをすること」を優先するようになりました。それは「自然淘汰」から、「性淘汰」に変わっていったということになります。
「集団」になり、「共同体」を形成していくことで、生まれたばかりの子どもや、病気や怪我をした者、障害を持つ者、高齢者などの「(社会的)弱者」を、みんなで支えていくことが可能になり、「生存率」や「種の多様さ」が格段に増えました。
さらに集団での「狩猟」や「農業」をすることで、「安定した食料の確保」にもつながり、「生きること」をそんなに個人でがんばらなくても大丈夫になっていきました。
生きることの「余裕」が出てきた先祖たちは、「狩猟の際の合図」や、「危険な状態を知らせる」といった時に使用していた「鳴き声」を、集団内での「コミュニケーション」に「転用」していくようになります。
それはどんどん「複雑」になっていき、それが「音声のパターン」として認識できるように「分化」されてきて、それによって「言葉」が生まれていきます。
その時期から、「脳の容量」は爆発的に大きくなっていくことになります。
進化というのは、「小さくコンパクト」になっていくのが通常ですが、それよりも「コミュニケーションを楽しむこと」を優先することで、それを司る脳のエリアが「大きく複雑」になっていったのです。
これは人間と動物の「眼」の違いにもつながっていて、動物の眼の多くは「黒目の部分が大きく」、それによって「どこを見ているのか(視線の向き)」が、他からわかりにくくなっています。そのおかげで「相手に自分の考えていることを読まれるリスクが少なくなり、捕まえられにくくなる」のです。つまり「生存に有利」ということです。
しかし、人間の眼は「白目の部分が大きく」しているせいで、「考え、意図が読まれやすい」のです。
他の動物は、「生きること」が最優先事項なのですが、人間は「社会」を作ることで、食べるものに困らず、寒さをしのぐことができて、病気もケアされるようになり、自分が「捕食される立場になる」ということを、そんなに想定する必要がなくなりました。それで「おしゃべりを楽しむ余裕」が生まれてきて、そのために自分の「眼」を、「自分の考え、思い、意図を伝えやすい」ように変えてしまったのです。
「眼の動きのわかりやすさ」もそうですが、「表情の豊かさ」も人間の特徴で、「自分の考えていることや感情」を、表情で伝えることもできます。
「顔と感情」というのは、深く結びついていて、「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」という言葉で表されるように、「感情は、表情(顔の形、動き)に続く」というのが、研究でわかってきました。
人間の先祖たちは、目の前に相手がいて、「お互いの表情を真似っこ」していると、それがただただ「楽しかった」のでしょう。それが「コミュニケーションの原始的な形」になりました。ただ顔見つめ合って、それを向こうが動かすと、自分も「つられて」動いてしまうという「遊びのようなもの」をしていました。
そして、相手がする表情には「パターン」があり、それと「感情」が結びついているように「錯覚」し始めるようになり、不確定な相手を「推論」するようにもなっていきます。(これにはミラーニューロンの登場も関係があると思います。)
ただの楽しさのための「真似っこの反復の蓄積」が、ある「かさ」に達することで、「感情のようなもの」が生まれてくるのですが、それが「自分に存在すること」よりも、まずは「相手に存在すること」を「錯覚」することによって、それが「不確定な振る舞いをする」相手を「想像(予測)」することにもつながっていきます。
それからしばらくしてから、「自分も不確定である」ことに気づき、「自分も他者(相手)であるように想像」するようになり、それが「自己意識(自我)」を生んでいくことになります。
先祖たちがしていたプロセスと同じように、生まれたばかりの赤ちゃんも、最初から「心」であったり、「感情」があるわけではありません。「情動」という感情ほど「分化」していないものがあって、目の前に幸せそうに微笑んでいる「母」を見て、その表情を「自動的に真似っこ」して、それを繰り返しているうちに、「情動が感情に分化される」ことが起きてきて、いろいろな感情を「学んでいく」のだろうと思います。(言葉も、最初は「未分化な鳴き声」のようなもので、それを「真似っこ」しているうちに、それが分化され、「複雑な言葉」を学んでいきます。)
何度も何度も「他人とのコミュニケーションという遊び」を重ねていくと、最初は「つられて反応」していた表情は、次第にある「パターン」を取るようになり、それがもっと「固定化」されていくと、その人の「感情」を作り上げていきます。それがさらに繰り返されると、「性格」にまでなっていきます。「膨大な表情の反応の蓄積」が、「その人固有の感情や、考え方」を作り出していき、そのパターンが「その人らしさ(マスク)」にもなっていきます。
自分の表情は、他人の顔や外の世界に向けて、生まれてから今まで「反応」し続けていて、それが様々な「感情」を生み出していって、知らず知らずに「自分のマスク」を作り出しています。そして、自分では気づていることは少ないのですが、いつもその「マスク越し」に世界を見て、生活しているのです。
「マスクは似たようなマスクを引き寄せる」という特徴があって、「何だかみんな不満そうな顔をしていて、愚痴しか言わない」という世界が目の前にあったとすると、そういう「マスク」を自分でこしらえてきて、それに似たマスクが寄ってきているということに、「自覚的」である人はほとんどいません。
そういった「固定された表情(マスク)」があり、それによって「パターン化された感情(性格)」が「反射的に」生まれ続けていて、「マスクが望んだ世界、他人」を見ているという状況を、「一旦、マスクを外して、この世界をありありと見てみる」というのが、このセッション7の一つのゴールとも言えます。
マスクを外して、まるで「生まれたばかりの赤ちゃん」のように、新鮮な世界を味わってみます。そうすると、「パターン化された感情(性格)」も、自分で「限定的に見ていた世界」にも、「変容の機会」を与えられて、「再調整、再組織、再統合」されていきます。
このセッション7の後に、自分の考え方や感じ方も変わり、自分の周りの環境に影響が出てくる人(仕事、パートナー、住む場所などが変わる人)が出てくるのは、「固定された表情(マスク)」が変化することによることだとも考えることができます。
先に紹介したココ・シャネルさんの言葉がありますが、「自分の顔が変わること」によって、「自分の生き様」や「自分の価値」が変わることがあるという解釈もできるのではないかなと、僕の今までの経験では感じます。
「顔以外の構造」を今までのセッション1〜6で整えてきましたが、それによってでも、考えや、感じ方、感情のパターンが変わる人もいますが、そういったものが「もっと変化できる可能性」を、「今までの人生で作り上げてきたマスクが制限している」ということもありえます。
セッション7で、その制限が外れることによって、その人の内面的なことや、周りの環境が「さらに変化する可能性を得る」ことにもなります。
その可能性を得ることで、さらにCさんがどんな風に変わってくるのか、残りの「統合のセッション」で見守っていきたいと思います。
Yuta
( Posted at:2017年5月25日 )
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