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モニターCさんの感想(セッション9 | 40代 女性)

モニターCさんも「統合のセッション」である、9回目に入りました。

いろいろな変化を感じてもらっていますが、これらの変化は「意図したものではない」というのがおもしろいところです。

あくまで「重力空間において、身体の構造が適切な状態になるように」と、ロルフィングをしてきただけであって、これらは「その結果として」自然に出てきた変化で、「狙った」ものでも、「予想していた」ものでもありません。

なので、感想を見てみて、「おお、そんなところも変化してきたのか」と、ロルファーの僕が驚いています。笑

それでは、Cさんのセッション9の感想を見てみましょう。

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9回目

下半身、統合
前回のセッションから変化あったこと
いきなり就寝時ふくらはぎが両足ともつったこと
これはけっこう私としては珍しいことなので不思議に思っていました

嬉しいことに姿勢のまっすぐが継続中
くびれも継続中
おしりも扁平ではなくなり厚みが出て私としては嬉しい

いつもジムで会っている友達に一週間ぶりに会ったら『なんかスッキリしてる!!』と言われました
体重は減ってないしどちらかというと微妙に増えているのにやたら痩せた?と聞かれることが増えました

そしてストレッチして気づいたのは股関節が柔らかく広がり易くなっている

以前は体重を毎日測りアプリに入力して管理するほどだったのにロルフィングをはじめてから月に一度測るだけ
もう見た目でオッケーなら数字は関係ないでしょ!!と思っています
いろんな縛りを持つことから解放されつつあるのかも

セッションが始まり大友さんが私の周りを移動するとまるで砂鉄が磁石に寄っていくように体の粒子が大友さんに向かってざわざわ~と流れていくのが回を重ねる毎に感じました
今回は特にそれが強くてそう思っているうちに初回で体験して以来の回転
初回と違うのはゆっくりゆっくり回転したこと

ベッドから降りて立つとまっすぐだけどズーンと重さを感じました
大友さんに言われた通りしばらく歩いていくとその重みは消えて軽くなりました

いよいよ次回で最後
さみしい感じです

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じわじわと追い詰められてきた「ねじれのエネルギー」

身体の中には、構造の「ねじれ(歪み、撓み)」を引き起こす「エネルギー」というのが存在していて、それがどこかに「停滞」してしまうと、そこの部分の構造は「ねじれて」しまいます。

もしも身体にねじれがあるとしたら、そのエネルギーの「解放(放出)」をしてあげないと、無理矢理に力でねじれを取り去ったとしても、すぐにまた元に戻ってしまうのです。

ロルフィングの10回のセッションを受けていくと、「ねじれのエネルギー」は居場所を失い、場所を「(転々と)移動」していって、最終的には身体から「抜けていく」ように、10シリーズの「順序」は「デザイン」されています。

その移動する際には、エネルギーの量は次第に「減少」していき、ねじれも「薄く(目立たなく)」なっていきます。

今回のCさんの場合は、それが「ふくらはぎ」に「追いやられて」きたようで、そこに症状が現れてきています。

「統合のセッション」まで身体が統合されてくると、「中心(コア)はすっきりしていて、末端(手足)に追い込まれる」状態になってくるので、まさにそれが起きてきたと考えられます。

「つる」という症状が出ていますが、「末端まで追い込まれたエネルギー」というのは、大分「勢力を失っている」状態なので、そこに対して適切にアプローチしてあげると、比較的簡単に身体から抜けていってくれます。(実際に、セッション9の後の状態を確認してみると、その後「つる」ことはなかったようです。)

他の感想の部分を見てみても、「中心はすっきり」してきているので、「姿勢がまっすぐ」していて、「くびれ」や「おしり」などの、身体の「フォルム」もきれいに出てきているようでよかったです。

あと1回セッションがありますが、残りのねじれのエネルギーが、きれいに身体から抜けていってくれるように、ロルフィングできたらと思います。


身体がニュートラルになると、思考も変わる

感想の中に、「いろんな縛りを持つことから解放されつつあるのかも」という言葉があります。

「身体の縛り(ねじれのエネルギー)」が抜けてくると、「考え方(または生き方)の縛り」も解放されてくる人がいるのですが、Cさんの場合もそれが起きてきているのかもしれません。

身体が「ニュートラルな状態」になってくることで、「考え方」も「偏りがなく、自由な状態」に変化してくる可能性があります。

確かに僕自身、ロルフィングを受け始めてから、「縛り(またはこだわり)を持たなくなる」ようになってきたなと感じます。

「考え方の縛り(偏り、制限)」を解放しようと努力しても、なかなかうまくいかない時もありますが、「身体の構造をニュートラルにする」という方向性も有効ではないかなと思います。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉が示すように、「実際に触れることのできる身体」へのアプローチを、ロルフィングでは大切にしています。


身体を「粒子の集まり」だと考えてみると

「砂鉄が磁石に寄っていくように体の粒子が大友さんに向かってざわざわ~と流れていく」

身体が「粒子の集まり」だと考えてみると、また身体が変わって見えてきます。(「身体とは何か?」の「モデル」が変わると、「見え方」も変わってきます。)

その「粒子の大きさ」が変わると、身体の「動きの質感」はどうなるでしょうか。

もしも身体を構成する粒子が、「岩」のように大きくゴツゴツしたものなのか、「石ころ」くらいなのか、「砂」のような細かくさらさらとしたものなのかと、イメージを変えてみるだけでも、歩くというシンプルな動作の質や感覚が変わります。

「ロルフィングを受ける前」の身体というのは、粒子が「大きく、荒く、重い」ような感じがします。そのような身体の歩き方を観察してみると、「岩のように固まった」部分が多く、動きが「硬く、ギクシャクして」見えたりします。

それが、ロルフィングを受けていくことで、粒子が「きめ細やかく、滑らかで、さらさらと軽い」ような感じになっていきます。

そのような身体になると、「粒子の移動が容易(スムーズ)」になるので、そんなに大きな力を加えなくても、身体の状態が変わってくれるようになります。つまり、より「微細なタッチ」によっても、身体が反応してくれるようになり、ほとんど力を加えなくても、「固まっていた組織がゆるみやすく」なったり、「可動域が大きく広がる」ということが起こるようになります。

さらに、粒子が「細かく」なるということは、「粒子が振動しやすく」なることも意味しています。ある粒子が振動すると、それが周りの粒子に伝わり、さらにそれがその周りの粒子にも波が伝わっていって、「粒子の振動の波の波紋」が広がっていきます。

ロルフィングのセッション中に、足首を軽く触れているだけなのに、脊柱が反応してきて、すーっと伸びるような感覚があることがありますが、それはこの「粒子の振動の波」をイメージしてもらったらいいかと思います。

頭を触れているのに、内臓が動き始めたり、肩甲骨の辺りに手が置かれてあるのに、反対側の大腿がゆるんできたり、ロルフィングでは「離れた場所(もしくは全身)が変化する」ということが起きますが、身体を構成する粒子が「(可能な限り)細かく」なり、「粒子の振動の波」が伝わりやすくなることが、それを可能にさせます。

こういった「粒子が細かくなること」を、「身体を割る」と表現することがあります。

下に紹介させていただく文章は、僕が神戸にいる時に、社会人ゼミ生として多くのことを学ばせていただいた、神戸の凱風館の館長である「内田樹」先生の『私の身体は頭がいい』という著書の「響く身体」という部分からの引用になります。


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「響き」というのは、「割れる」ことでしか発生しない。静止したソリッドな単体からは何の響きも生まれない。

(中略)

そのためには「割れ」なければならない。限りなく細かく割って割って微細な粒子になるまで、身体を割らなければならない。「割る」というのは、同時に微細な震動を発することである。「割れ」が細かければ細かいほど、発される震動音は深みを増し、厚みを加え、肌理が立ってくる。同時に、「割れ」が細かければ細かいほど、聴き取りの感度はよくなり、聴き取られる音の数や種類は増える。

(中略)

大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。無限に割って、微粒子にまで割る。それが調和を到成するということである。哲学も舞楽も武道も、その帰する所はおそらく一つである。

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身体を「割る」、身体が「響く」、身体は「整う」

ロルフィングが10シリーズを通して達成しようとしていることも、この「身体を割るプロセス」なのではないかなと思っています。

「身体が微細に割れてくる」ことで、「響きやすい身体」になります。

動作は「滑らかで、軽やか」なり、エネルギーは「コヒーレント(細かな粒子が、密度の濃淡の偏りがなく、均一に分布されていて、波が伝わりやすい状態)に伝わり、スムーズに通りやすく」なります。

ごくわずかな入力にも反応できるほどに精密で繊細な構え

内田先生は合気道の先生でもあるのですが、「身体を割ることの効用」を上のような言葉で表現されています。

ロルフィングの場合でも、わずかなこちらの「出力(タッチによる刺激)」にも、受け手の身体が「反応」してくれるようになり、タッチは「よりシンプルで、透明なもの」になっていきます。

Cさんが書いてくださっているように、「砂鉄」のように細かくなると、「手を触れない、エネルギーワーク」にも反応しやすくなり、まさに「磁石に寄っていくように」に身体の粒子の「移動」を感じたり、「粒子が均一に整列」するような「振動」を感じたりもします。


この動画では、砂をスピーカーの上に置いて、様々な「周波数の音」を出していくと、それに応じて砂が「幾何学的な模様」を作り出す様子を紹介しています。

これを身体に置き換えてみると、「身体が微細に割れる(きめ細かな砂)」と、「純粋な意図も持ったタッチ(特定の周波数の音)」にも反応して、勝手に「構造的なバランスが整う(きれいな均整の取れた模様、パターン)」ということが起きます。

まずはそのためには、繰り返しになりますが、「身体を構成する粒子が細かい」ということが大前提で、それには「物理的な圧を、持続的に加えるタッチ」が効果的な時もあり、それが「ロルフィングの伝統的なスタイル」にもなります。(「クラシカルな」ロルフィングは、圧をしっかりと加えてワークをします。)

そうやって身体が割れてくると、「粒子の密度の偏った分布」が起きることもあり、例えば、右腰の辺りに粒子が「濃く」偏っていて、そのために「動きが少ない(滞っている)」状態になる一方で、他の部分は「薄く」分布しているために、粒子が「動きやすい」状態になり、「コントラスト」が生じることになります。

そしてそれが、右腰が張りやすいなどの「症状の要因」になることもあります。

同じように「右腰が張りやすい」という症状があったとしても、「粒子は細かいけど、それが右腰の部分に集まり過ぎて、停滞してしまって動きがない」という状態なのか、「粒子が岩のように大きく、ちょうど岩と岩の切れ目の部分に右腰があって、そこに負荷が抜けていきやすい」という状態なのかだと、「ロルファーがすべきこと」は全くちがってきます。

前者であれば、「エネルギーワーク」などのように、「粒子を振動させて、一様に均す」ことが効果的でしょうし、後者であれば、「クラシカルなロルフィング(組織に対する、持続的な圧を加えたワーク)」によって、「粒子を細かくする」ことが効率的なように思えます。


上の動画は、100万個の粒子が動いている様子ですが、最初は「均一に」分布していたのが、粒子が集まって「濃く」なり、そこに「形のようなもの」が浮かび上がってきては、それがまた「まばら」になってというのを繰り返しています。

もしもこの粒子が「濃く集まった」状態が長く続き、「動きが停滞し、さらに動きが限りなく少なくなる」と、それは「固体(ソリッドなもの)」のようにふるまいます。(「気体」から「固体」への「状態変化」のようです。)

すこやかで健全な赤ちゃん
粒子の大きさ:微粒子レベルに細かい
粒子の移動:自由に動き、流動的
身体の柔らかさ:とても柔らかい

何か身体に不調を抱えた大人
粒子の大きさ:岩のように大きい
粒子の移動:ほとんど移動はない
身体の柔らかさ:硬い

上に少しまとめてみましたが、元々赤ちゃんの頃は、粒子が「細かく」、それらは「自由に動き回ること」ができるので、まるで動物のように「しなやかな(流動体のような)」身体をしているのですが、それが大人になって、どこかが痛いなどの「症状」が出てくる身体というのは、「固体的な」身体のふるまいをするようになるということになります。

ロルフィングを受けて、「身体が軽くなった」という感想をもらうことがありますが、それは身体が「固体から気体へ」と、身体の「粒子が細かくなり、自由度が増したから」という説明もできるかと思います。


この世界が、「粒子の循環」だと考えてみると

ここまでで、身体は「粒子の集まり」だと考えてみて、それが「状態変化」をすることがあり、ロルフィングでは、「固体」のように「硬く、動きを失った」身体ではなく、「気体」のように「自由な動き」がある状態を目指していると説明してきました。(そして、そのためには「身体を割る」ことが大切になります。)

そして最後になりますが、「身体という枠」を超えて、僕らが存在しているこの世界そのものも、「粒子の集まり」であって、その「粒子の循環」が起こす「ひとときの姿」だということまで書きたいと思います。

そのために、僕が何年も読み続けている、シュタイナー教育と野口整体の実践者でもある「山上亮」さんの『雑念する「からだ」』というブログの文章を紹介したいと思います。


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私たちのからだは、いろんな物質がつねに通り抜けている。

私たちは日ごろ、あまり変化の少ないからだに見慣れているので、当たり前のようにそこにからだが存在しているかのように思っているが、 からだ中の細胞はおよそ7年ですべて入れ替わると言われている。

全部の細胞が入れ替わるかどうかは諸説さまざまであるようだが、 多かれ少なかれほとんどすべての細胞が入れ替わっていることは事実のようである。

もっともひんぱんに入れ替わっているのは、皮膚、胃、腸などで、3、4日ですべて新しい細胞に入れ替わり、 目の角膜なども約1週間で入れ替わる。

赤血球は平均125日で入れ替わり、また肺、肝臓、すい臓、脾臓といった臓器の細胞は400~500日で入れ替わるそうである。

比較的ゆっくりと入れ替わるのは、骨で約5年、筋肉は約7年かかると言われている。

銀河系の星の数より膨大な量の細胞をもつ人間のからだの中では、1分間に2億個の細胞が生まれ、また死んでいる。

私たちのからだは絶えず生まれ替わっている。

7年も経てば、私たちは物質的にはまったくの別人なのである。

先ほど述べた地球大循環の話も含めて考えてみれば、私という人間はいったいどこまで個人であると言えるのだろう?

私があなたで、あなたが君で、彼と彼女と、ボクと...、君?と?私は...、彼?と、あなた?

...え~と、あなたは一体誰ですか? 私も一体誰でしょう?

たまたま「今」「ここ」に「私」として現象している、モノやコトたちの一瞬の出会いときらめきを、私は「私」と感じているけれど、 つねにいろんなモノがやってきてはまた世界へと帰ってゆく、「通り抜けられるこのからだ」というものが、まるで「がらんどう」 のようにも思えてくる。

「からだは波なんですよ」とは、私がつねづね講座でもくり返していることだけれども、それはからだも波も、ともにこのような 「通り抜け」の現象だからである。

(中略)

つまり、絶えず細胞が入れ替わりながら、7年ですべて入れ替わったとしても、「私」という人間のカタチを保ち続ける肉体。

形態はとどまり、物質(細胞)は通り抜けている

私たちのからだは、つかのま物質同士が寄り添って形作っている「現象」であって、 形作っている物質自体は形態だけを次世代(細胞)へと引き継ぎ、やがて再び物質循環の生態系へと帰ってゆく。

物質をともなう肉体はあまりに「硬い」ので、「実在」であることをまったく疑うこともなく確信しきっているが、 時間軸の流れをちょっと早くしてみれば、たちまち『絶えず生起し続ける「現象」』としての面が浮かび上がってくる。

それは固体であるかのように見えるガラスが、 実は何千年もかけて重力に従ってゆるやかに「零れ落ちてゆく」液体であることにも似ている。

ガラスがあまりにも長大な時間軸を具えているので、私たちの目には零れ落ち続けるガラスが、 まるで止まっているかのように見えるだけである。

(『雑念する「からだ」』、「からだは波だと私が思うのも...」からの引用)

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この文章にもあるように、私たちの身体は「物質で、ソリッドな固体」と確信していますが、それは私たちの生きている時間軸の中での感覚であって、宇宙の時間軸で「一人の人間の一生」を見てみると、「ほんの一瞬の出来事(現象)」でしかありません。

それが仮に70億の人がいたとしても、『絶えず生起し続ける「現象」』には変わりなく、それは人間のたくさんの細胞が、「生成されては消えていく現象」と同じようなものに、僕には思えてきます。

続いては、同じく山上亮さんのブログからの引用なのですが、さらにその中で「福岡伸一」さんの著書『もう牛を食べても安心か』の引用をされています。(ややこしくてすいません。笑)

福岡さんは『動的平衡』や『生物と無生物のあいだ』という本も書かれていて、テレビなどでも見かけることもある科学者の方です。(米国ハーバード大学研究員、京都大学助教授、ロックフェラー大学客員教授などもされてきた一流の科学者です。)


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(山上さん)
私たちのからだは環境と一繋がりの物質循環の流れの中にあり、「私」という現象は、 その流れの中で物質がたまたま一瞬とどまり密度が高まった、いわば分子のゆるい「淀み」でしかない、と筆者(ここでは福岡さんのこと)は言う。

(福岡さん)
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、 分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ換わっている。 この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと、出ていくタンパク質との収支が合わなくなる。 それがタンパク質を食べ続けなければならない理由なのである。

(山上さん)
「物質」が通り抜け、「情報」が通り抜け、それらが通り抜けるいっときにおぼろげながら浮かび上がる「私」という現象。

私の中を巨大な流れが通り抜け続け、またその巨大な流れ自体の一部である私。

(『雑念する「からだ」』、「たべるのむみるしゃべる.」からの引用)

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この世界は、細かな物質(粒子)が漂っていて、それが絶え間なく循環している。そして、その粒子の密度が高まっているところ、つまり『ゆるい「淀み」』として、この「身体」が存在している。(そして、それは他の物質でもそうであるということ。)

身体の外側の輪郭と、空気(環境)との境界が曖昧になりました

こういった感想を言ってもらうこともあります。身体の皮膚の部分が、「空中に滲んでいく(溶け出していく)」感覚で、ロルフィングのセッションだけでなく、他のボディワークや、瞑想中でも感じられることがあります。

言葉だけを聞くと、「何を言っているんだろう?」という感じだと思いますが、「身体は粒子の集まりで、それがもっと大きな流れの中で循環している現象」だと考えてみると、その感覚もあり得るものと感じられてきます。

最後になりますが、それを「ビジュアライゼーション(視覚化)」している動画がありますので、それを最後に観ていただいて、今回のCさんのセッション9の解説を終えたいと思います。(動画は、2:00過ぎくらいから再生してみてください。)

「思考」はすぐに「固定」してしまいがちになりますが、それを一度「自由」にしてみるきっかけになればうれしいです。





Yuta

( Posted at:2017年7月29日 )