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モニターAさんの感想(セッション8 | 20代 女性)

Aさんもいよいよ「統合のセッション」に入ってきました。

今までの7回のセッションは、それぞれにゴール(セッション2は「地面とつながる足」など)があって、そしてそのために身体のどの部分にアプローチするかも決まっていましたが、これから先のセッションは、「個人に合わせて仕立てられる」ようになります。つまりは、「その段階でまだ残されている課題に対して、臨機応変に必要なことをしていく」ということになります。

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服をトータルコーディネートする「センス」

ロルフィングの10シリーズというのは、「ファッションのトータルコーディネート」にも似ているなと思うことがあります。(自分はファッションに疎いので、あくまで想像の範囲ですが。)

クライアントさんがいて、そしてそのコーディネートをお手伝いするスタイリスト(ロルフィングの場合は、ロルファー)がいて、「その人に本当に似合った服」を、10回のカウンセリングをしながら、一緒に探していくようなプロセスです。

例えば、1回目のカウンセリングでは、まずは今着ている服を見させてもらったり、どんなスタイルの服が好きなのか、そしてどんな風になりたいのかという、これからの「大まかな道筋」を決めていきます。

そして、それからの各カウンセリングでは、「トップス」、「ボトムス」、「靴」、「帽子はかぶるかどうか」、「カバンを持つとしたらどんなものを合わせるか」、「アクセサリーは必要か」などを、それぞれに決めていきます。

クライアントさんにとっては、今までの自分の選択肢にないような服を提案さることもあり、それをチャレンジしてみて、「お、意外に似合うじゃん」となることもあれば、「やっぱりダメだな」となったりして、その「やりとり」によって「自分に似合う服」というイメージが、少しずつアップデートされていきます。クライアントさんとスタイリストの二人が、「開かれたやりとり」を重ねていくことによって、少しずつ最終的に向かうべき方向が見えていきます。(どちらかだけの意見ではなく、それを「やりとり」することがポイントです。)

一つずつテーマに沿ったアイテムを選んでいきますが、実際にその服に袖を通してみて、そしてそれらを全部合わせて見ると、それぞれがうまく「調和」せずに、アイテム同士が魅力を打ち消し合ってしまうことがあります。

そこで大切になってくるのが、スタイリストが持っている「センス」の感覚です。この例の場合では、「トータルコーディネート」ということです。

「トップスとボトムスをその組み合わせでいくとしたら、あまり靴は主張しすぎない方がいいな」とか、「目線を上に持っていきたいから、帽子をかぶった方がいいかな」などと、「全体を見ながら、微妙な調整をする」ことで、「総合的な印象」がガラリと変わることがあります。それはまるで「魔法」のようにも見えます。

「程よい「抜け感」(または「こなれ感」)」などという言葉が、ファッションで使われることがありますが、これはとても「感覚的な言葉」です。「わかる人にはわかるし、わからない人も、何回か見ているとわかってくることもあるし、それでもわからない人もいる」といったもので、一言で言うと、それが「センス」ということになると思います。

テレビなどでそういうセンスがある人が、靴や小物を少し違うものに変えたり、服のボタンの開け具合、袖をまくるかどうかなどを、ちゃちゃっと調整すると、「おお、何かすごい変わった」と、素人目にもわかる変化が起こることがあります。(こういったことは、様々な芸術の分野にもあって、いわゆる「神は細部に宿る」ということになると思います。)

そういった「センス」という感覚がロルフィングにもあって、それは「トレーニングして培うことのできるもの」で、ロルフィングの授業では時間をかけながら、その感覚を養っていきます。もしもそのセンスの感覚がなければ、「筋膜リリース」と「ロルフィング」は同じものになってしまいます。

認定を受けたロルファーには、身体全体の構造を見ながら、その構造を抜けていく「ライン」を引き出していく「センス」が備わっているのです。(「センスがある」などと言うと、恥ずかしいのですが、わかりやすいので思い切って書きます。)

服をトータルコーディネートするセンスのように、ロルフィングの10シリーズでは、まずはクライアントさんの現在の身体の状態を丁寧に、詳細に観察して、クライアントさんの要望も聞きながら、最終的な目標を設定していきます。

そこから各セッションのテーマに合わせながら、その人の身体の構造を、適切な状態へと導いていきます。

それはロルファーからの一方的な意見ではなく、クライアントさんとのやりとりを通じながら、適宜、最終的な目標を調整していきます。

時には大胆な提案をしてみたり、逆にこちら側が思いもしなかった意見をもらったりして、「その人に本当に似合った身体」が段々浮かび上がってきて、そのイメージを二人で共有していきます。

そうして時間をかけてやりとりをしてきて、少しずつ見えてきたイメージがあるので、クライアントさんは「自分で自分の身体を調整できる」ようにもなります。

もしも一方的にロルファーが施術を進め、短時間でゴッドハンドのように改善してしまうと、痛みや不調などは取れるかもしれませんが、自分の身体のことをよく理解していないので、自分で調整することは難しくなります。そうすると、クライアントさんが「依存」してしまう状況が起こりやすくなります。

アイダ・ロルフさんは、「ロルフィングは『治療』ではなく『教育』である」と強調していましたが、時間をかけながらクライアントさんと一緒に「その人に本当に似合った身体」を考えていくので、それがクライアントさん自身でもわかってきて、自分のことを自分で調整できるようになります。

そして、この「統合のセッション」に入ってくると、ロルファーの中にある「センス」の感覚に従い、「全体を見ながら、微妙な調整をする」ことが大事になってきます。

そういうことで、ここからがロルファーの腕の見せどころとも言えるかもしれません。


「動き」が身体全体の構造を変化、統合させていく

統合のセッションの段階までロルフィングをしてきて、いきなり「トップスを大胆に変える」というようなことは、あまり起きません。つまりは、統合のセッションで、ロルファーが大きな圧を加えて、身体の構造を大胆に変えていくというようなことは少なく(それは今までのセッションでやってきたことなので)、受け手であるクライアントさん自身の「微細な、洗練された動き」によって、身体が全体的に統合されていきます。

ここでの「動き」というのは、肘を外に動かしてもらったり、膝をわずかに上下に動かしてもらうという、とてもシンプルな動きで、ただそれを「外側の大きな筋肉を使うのではなく、内側の小さく細かな筋肉を動員しながら、ゆっくりと、全身の構造にその動きの波が伝わるように」行うというのが、とても重要なポイントです。

「動き」によって、身体の「構造」が整ってくるということは、つまりは「機能」によって、「構造」が整ってくる側面が強くなってくるのが、この統合のセッションの特徴とも言えます。(セッション1〜7は、「構造」が変化することで、「機能」が洗練されてくるという側面が強かったです。)

セッション8、9はペアになっていて、「上半身」または「下半身」の統合を、「動き」を通して行っていきます。

その前のセッション6、7もペアになっていたのですが、そちらは「電気的な調整」を目指したセッションで、このセッション8、9のペアは「磁気的な調整」の時間とも呼ばれています。(「電気的な調整」については、Aさんのセッション6のブログをご覧ください。)

セッション6では、身体が動作を行う際に、その力、エネルギーが全身を駆け抜けるキーポイントである「仙骨」を調整、解放して、アースのように地面に体重を預けることができるようにしました。そうすることで、逆に地面から押し返される上向きのエネルギーを受け取ることができる準備ができました。それを「『陰極』を確立する」と表現しました。

そして前回のセッション7では、その上向きのエネルギー(ライン)が頭頂を抜けていき、全身を無駄な力なく支えてくれるように、「頭蓋」にアプローチしました。そのことによって「陽極」も開かれることになります。

そして、陰極と陽極が確立されると、そこに「電流」が流れます。それが反重力的な感覚である「ライン」になります。

「重力はエネルギーで」あると、アイダ・ロルフさんは繰り返し話していますが、下向きの重力というエネルギーが、適切な構造を通り抜けていくからこそ、それが上向きの「反重力」なエネルギーになり、自分を立たせてくれるのです。

そして、電流がそこに流れると、そこには「磁場」が発生します。そうすると、そこに「力」も発生します。具体的に何かを「動かす力」です。(高校で習った、「フレミングの左手の法則」です。)

「磁気的な調整」というのは、セッション6、7で「電流」が流れ、身体の支える「ライン」としてそれが観察されるようになり、そうすると、その人の身体の周りには「磁場」が発生して、「何かを動かす可能性のある力」が働くので、それがセッション8、9で利用する「動き」なのだと僕は考えています。

実際には受け手の人に動かしてもらうのですが、感覚的には「誰かに動かされているような感覚」で動きます。これはなかなか体験してもらわないとわからないと思うのですが、自分で動かすという「努力感」がほとんど要りません。

Alex_Grey_Spiritual_Energy_System1.jpg

上の絵は、Alex Greyという人が描いたもので、すでに上に書いた説明を「可視化(ビジュアライズ)」してくれているものだと考えています。僕が説明したものがよくわからなくても、これを少し時間をかけて眺めていると、それでも「何か」が伝わってくるかもしれません。


さて、だいぶ「統合のセッション」の説明が長くなりましたが、Aさんのセッション8で実際にどんなことが起こったのか、感想を見てみましょう。

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第8回目の感想です。

第8回目セッション開始前に自分の体調を見てみると、特に不調を感じることもなく、地面に足がピッタリくっつき、歩いていても地面をきちんと踏みしめている感じがありました。ぴょこぴょこ歩いていた歩き方も、後ろ足がきちんと残り、前にすっすっと歩くことが出来るようにだいぶ変わったと勇太さんに言っていただきました。

毎回のセッション恒例の体の可動域チェックの時、両足がとても重く、両腕もまったく上がらず...。勇太さんに触ったり押してもらっているうちに徐々に動くようになりましたが、両手両足共に頑固な癒着があったようで、8回目の調整は多くの時間を両手両足にかけていただいたように思います。両手両足が自由になっていくのと一緒に全身がぽかぽか温かくなっていき、いつものごとく内臓の動きがどんどん活発になっていきました。

セッションを重ねてきて、胴回りが分厚くなった分、呼吸も背中回りまで入っている感覚をよく感じられるようになり、以前が胴体の中に細いパイプがあって、呼吸するたび、その中を空気が行ったり来たりしているような感覚だったとすると、今は分厚くなった胴体の外枠すべてが太いパイプになったような感じで、胴体全てで呼吸しているかのように感じる時もあります。

途中、首や頭のバランスを整えてもらっている時に、勇太さんから「心臓を起点に両手両足、そして頭が5方向に伸びているが、それは全てつながっているイメージ」というような内容や、「両手の平は同じ速さで振動しているイメージ」といった内容を言って頂きました。その前から、「なんか両手のひらが同じ感じにしびれている感じがするな」と感じていたので、それはとても納得できました。

後半になると両手足のしばりもなくなってきて、体がポカポカしてひとつになっているような感覚も強くなってきました。体がスッキリポカポカしてきたら、同時に心もとてもスデトックスしたような感じがして、視界がクリアになっていくのを感じました。

その感覚は、第6回目のセッションを終えた後すでに体験していた、視界の1トーン明るくなる感じに似ていて、眼の疲れ等も何も感じなくなっていたので(普段は仕事柄、毎日役8時間PCと向き合いっぱなしで、目が乾燥気味だったり、休憩でたまに長く目を閉じると、自然に涙がじわ~っと出てくるほど目を労使していることも多々です)とても良く見えるのが何だか嬉しくって、「天井の木目がとってもよく見えるなあ」とかクリアに見える視界を楽しんでいると、勇太さんからも「泣いた後スッキリした子どもみたいな顔をしていますよ。」と言ってもらうくらい、本当にスッキリしていました。

ただ、両手が連動している感じは感覚としてとてもあったのですが、頭の眉間の上と3点でつながっている感覚があまりなく、勇太さんに伝えた所、頭の裏を触ってくれることに。しばらくすると、自分でも驚いたのですが、目の前にひし形のマークが見えてきて、手前から奥に行くに連れて、だんだん大きくなりながら流れていく映像が見え出しました。見えてきてと言っても目は閉じていたので、「なんだろう、これは?」と不思議な体験でした。

表現しようとすると、瞼の裏側で映像を見ているような感じがしました...。そのひし形は太めの枠で覆われており、真ん中のひし形部分は暗い紫、枠の部分は濃紺のような色で、近づいては離れていくのを10回くらい繰り返すと、次に同じ色の暗めの紫と濃紺のマーブル模様のようにぐにゃぐにゃと混ざり待って形が変わるような映像に変わりました。

そうしているうちに今度は真っ暗い闇の中に時計回りの渦巻きのような螺旋が見えてきました。最後にオーロラのようなカーテンが波打つような映像に変わった時に、勇太さんに「ゆっくり戻ってきて下さい。」と言われ、少し時間がかかって目をやっと開けることが出来るようになりました。

とても不思議な体験でしたが、実際に身体面で確実に起こっていたことと言えば、そのイメージが見え出した時から顔面の、特に目周りが、ビクビクビクビクと痙攣したように動き出し、瞼(眼球?)も小刻みに動き出したことです。初めての経験で少しびっくりしましたが、すぐには目を開けたり出来る状況ではなかったため、そのまま体が動くようにさせていた感じです。映像が見えなくなると共にその痙攣はおさまりました。

この時少し怖くなったことがあって、自分の意識では「すぐに目を開けよう」と思っていても、体はすぐには反応してくれず、目がなかなか開けられなかったことです。「開けるんだ」と意思をしっかり持って取り組んでやっと、時間をかけながら目を開けることが出来ました。途中で「このまま目を開けることが出来ないのかな?」と思うぐらい、体が自分の思い通りにならなくて、不安でした。

日常生活で、自分の体を思い通りに出来ると思っていることに気づきましたし、私の祖父がよく体が思い通りに動いてくれないと、本当につらそうにしているのですが、きっと、とてもとてもしんどいのだろうなあと思いを巡らせました。

8回目のセッションを終えると、まだ不思議な現象の余韻が残っていて、少しふわふわした感じがありました。帰り道気をつけて、しっかり地に足をつけて帰らねば...!と気を引き締めました(笑)体は、どんどんまとまっていくような統一感があり、足の裏はとても感覚がさえて地面に足のどの部分から着地するのか感じられるほど感覚が高まっていたように思います。足の感覚は素晴らしいけれども、体の重さや重力は感じないくらい軽かった印象です。

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空間(通路)が拡がり、エネルギーが流れ始める

Aさんの今回の感想を見てみると、おもしろい「身体感覚」の表現があります。それを解説していきたいと思います。

SDIM5185.jpg

それは、「分厚くなった胴体の外枠すべてが太いパイプになったような感じで、胴体全てで呼吸しているかのように感じる時もあります。」というところです。

「パイプ」という表現がありますが、ロルフィングでは「シリンダー」という言葉を使って、「ダブル(デュアル)シリンダー」と呼ばれている感覚になります。

身体の中に2つのシリンダーがあって、そのシリンダーの中の空間をエネルギーがまっすぐに通っていくイメージです。(上の図にそれが示されています。この図は、ハワイのKauai島でSIプラクティショナーをしていて、僕が参加したワークショップでアシスタント講師を務めてくれた Jason Pan Esterleさんが描いたものです。)

この「シリンダー」の感覚が出てくると、自分の身体に「厚み(ボリューム)」を感じるようになります。

シリンダーの厚み、ボリュームが十分にあると、エネルギーが通る「通路、空間」も出てくるので、エネルギーが通り始めるようになります。そして、そのシリンダーがまっすぐであればあるほど、エネルギーは途中で途切れることなく、まっすぐに身体を上下に貫くように流れます。

シリンダーが途中でつぶれたり、薄かったりしても、ぐにゃりと曲がっていても、エネルギーは通り抜けることはできません。

左右のシリンダーで違う感覚がすることも多く、「左の方が細い感じがします」であったり、「右は途中で曲がっています」というようなフィードバックで表現されます。

では、ロルフィングの10シリーズで目指している、身体を支えてくれる「ライン」はどこを抜けていくかというと、「左右のシリンダーを包む、もう少し大きなシリンダー」があって、2つのシリンダーを「太巻き」のように包んでいるのですが、その真ん中を通り抜けていきます。

「『ライン(エネルギー)』が通るためには、『空間、通路』が必要だ」というのが大切なポイントです。

スクリーンショット 2017-05-02 12.24.38.png

上の図は、「空間(ここでは身体の内部の空間)と意識の関係性」を示しています。

人は基本的に、自分の「外側」に眼を向けて、意識もそちらに向いています。目の前に何があるのか、どんなことが起こっているのかを、常に見ています。(図の①)

これとは対象的に、「内観」と呼ばれるものがあって、それは自分の身体の「内側」に意識を向ける行為になります。座禅、瞑想、マインドフルネスなどをする時には、この状態になっていて、外にばかり意識が向くところを、自分の内側で起こっていることに集中します。(図の②)

この内観に慣れてくると、「もう一人の小さな自分(small me)」が生まれ出てきて、それが自分の身体の中の空間に入って、その空間を内側から眺めるような感覚が出てきます。自分の身体の中に小人がいるような状態です。(図の③)

この③の感覚のためには、「自分の身体に『空間がある』という認識」がなければいけないのですが、それには身体の構造が「拡張(膨らむ、拡がる)」していなくていけません。

これをロルファーのEd Maupinさんは「Core Expansion」と呼んでいて、その状態を導き出すために10シリーズがあるとも話していました。

ロルフィングを受ける前の身体は、多くの場合①の状態で、それがセッションを受けていくことで、②のように内観できるようになってきます。

さらに身体が構造的に「拡張」してくると、それによってできた「空間」に、「もう一人の小さな自分」が出てきて、身体の空間内を自由に「探検」できるようになってくるのです。

そしてさらにその「もう一人の小さな自分」の中には、「さらにもう一人の、さらに小さな自分」がいて、という風に、「入れ子構造」のように進んでいくこともできます。

瞑想の達人は、その矢印の向き(内側向き)とは反対方向に「もう一人の大きな自分」にも意識を向けることで、最終的には「さらに大きな存在」にまでアクセスできます。自分の身体から、宇宙まで無限大にも「拡がる」こともできますし、細胞、粒子レベルにまで「縮む」こともできます。

Aさんにも、自然に「自分の身体を、自分の身体の内側の空間から眺める」感覚が出てきているので、すごく深い体験ができるようになってきました。


示唆的な「ビジョン」を得ること

上にも書いたような感覚が出てきたことで、今回は少し不思議な体験もしたようです。

それは、ひし形に色が付いていて、それが大きさを変えて移動したり、形を変えたりするような「ビジョン(Aさんの感想では「映像」と表現されています。)」を見たということでした。

ロルファーの僕にとっても、受け手であるAさんにとっても、それが「何を示しているのか(どんな意味があるのか)」は検討もつきません。

ロルフィングのセッションをしていると、施術者側も、受け手側も、意識の状態が「瞑想状態」に自然に入っていきます。

過去や未来のことを考えたり、思考が過剰に働いている状態ではなく、「今、ここ」に意識はあるのですが、特定の何かに意識が囚われてはいなくて、頭は冷静で、知覚も広がっています。覚醒と睡眠の間のような感覚で、寝ているように落ち着いていて静かなのですが、周りで起きていることを「捉える」ことができています。

そういった意識状態に入ると、そこでとても示唆的な「ビジョン」を得ることがあります。

僕もロルフィングのセッションを受けている時に、ふと、「自分の母親のお腹の中にいるという実感」がありありとしたり、「幼い子どもの頃の原体験を再体験」してみたり、「何かのシンボル」のようなものが見えたりすることがありました。

そういった何かしらのビジョンを得たとしても、すぐに取り出してこれる「意味」もあれば、「はて、あれは何だったんだろう」と、なかなかすぐには意味を掬い取ることができないものもあります。

でも、不思議なことに、そういったものは無意識の層に静かに沈んでいて、ふとした時にその意味が「顕になる」こともあります。

今回のAさんのビジョンは、どちらにとっても「どんな意味も手に取ることができない」タイプのものだったので、このビジョンの解釈は「一旦保留」にしておこうと思います。いずれ大切な何かを、Aさんに気づかせてくれるタイミングが来るかもしれません。

こういったように、身体という「生き物(ナマモノ)」に素直に向き合っていると、たまに「すぐには意味がわからないけれど、大切なものであるのはわかる」というようなものに「遭遇」することがあります。

思考が働き過ぎている時には、こういった「ビジョン」には遭遇することは難しくなります。

こういうような「ビジョン」は、「身体を通した体験」から得られるものなので、身体を置き去りにして頭だけが働いている状態では、そういう機会は訪れにくいのです。

最近は、かなり世の中的にも、「思考(左脳)」に偏った流れにあるので、そのカウンターとして「禅、瞑想、マインドフルネス」などが一般雑誌でも特集されるようになり、コンビニで並ぶようにもなりました。

みんながみんなインターネットによって結ばれ、SNSで日々やりとりをしていくと、身体は置いてけぼりで、思考に思考を重ねていって、自分で自分を制限したり、「漠然とした他人」から縛られるような状態になります。そうすると、社会の「ダイナミクス(流動性)」も次第に失われていき、いろいろな流れが「停滞」して、様々な活動が「自粛」されるような、重いムードになっていきます。

そんな重苦しい状態から抜け出す「力(動き、ダイナミクス)」が、「ビジョン」の中には含まれています。

瞑想などによって、思考(左脳)の過剰な働きを抑えて、右脳の可能性をオープンにすることで、「ビジョン」を得ようという流れが、カウンターとして自然に生じてきています。

実際に、世の中の偉大な発明をした人や、芸術、スポーツ、ビジネスのなどの世界で天才的な仕事をした人の中には、瞑想を日常的に行っている人もいて、その中から「ビジョン」を得て、そこから「ギフト(さっきの「意味」と同じようなニュアンスです。)」を引き出すことにも成功し、それが彼らの仕事を素晴らしい方向へと導いてくれているのです。

そして、そういうことが、一部の特別な人だけではなく、一般の普通な人にも起こるような世の中になってきているのです。

ただ、この「瞑想状態」というのは、「快感」の感覚もあるので、ただその快感を求めて瞑想をしてしまう人もいますし、最終的には自分の欲望を叶えてくれるビジョンが欲しいがために(自分のエゴのために)、瞑想に溺れてしまう人もいます。

瞑想に快感を覚え、「瞑想状態こそが真実だ」と、現実世界からどんどん「乖離」していったり、エゴのためのビジョンを得たいがために、「瞑想の森」の奥へどんどんと進んでいってしまう「怖さ」も、瞑想にはあることを忘れてはいけません。

瞑想にはきちんとした「手順、作法」があり、それを導いてくれる「ガイド」が必要なのです。

これは「山登り」に似ています。

山頂まで登って、「この世のものとは思えないほどの絶景」を体験して、「これが理想の世界だ」と思っている人に、「さあ、そろそろ山を下りましょう。あなたには戻るべき場所があるんです。」と声をかける必要がありますし、「もっと素晴らしい絶景があるはずだ」と、勝手に奥に進んでいこうとする人に、「もうそろそろ下山しなければ、日が暮れてしまいます。日が暮れて、ここに闇が訪れると、危険なことがあります。」と、「警告」もしなくてはいけません。

ガイドは、山の素晴らしさを知ってもらうことも大切な仕事ですが、それよりも大切なことは、「山の怖さ」を伝え、「必ず、無事に家に帰ってもらうこと」です。

最近、僕が心配していることは、瞑想的な状態に導くような「体験」が増えてきたことはいいのですが、「帰るべき家があり、その帰り方を示す(帰り道の切符を渡してあげる)」ことを「おざなり」にしているなと感じることがあることです。

「優れた芸術」も、「瞑想体験」や「山登り」のように、人を「ここではない違う場所」へと導いてくれるのですが、最後にはきちんと「元の場所」に戻してくれます。(そして、元の場所には戻るのですが、「前とは少し違ったように」感じるのが、本当に優れているところです。)

国民的なアニメーション映画である、宮﨑駿さんの「千と千尋の神隠し」でも、きちんと主人公の女の子は「元の場所」に戻ってきます。けど、「別の場所」での「特別な体験」のおかげで、「前とは少し違った(「成長した」と言ってもいいかもしれません)」女の子になっているのです。

今回のAさんのセッション8では、「ガイド」としては、「ギリギリを攻めた」感じになってしまったので、もう少し余裕を持って導いていった方がよかったかなと思っています。

結果的には、身体の感覚としても、足の裏の感覚がしっかりとありながら、それでいて身体が軽い感じがしたようなので、そこは安心しています。

あっという間に残り2回のセッションになりましたが、身体を整えていった結果として、どんな景色が見られるのか楽しみにしたいと思います。




Yuta

( Posted at:2017年5月 5日 )