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モニターEさんの感想(セッション10 | 30代 女性)

Eさんも今回のセッションで「10シリーズ」が完結になります。

Eさんご自身がダンスを長年されてきて、特に「バレエ」経験者の方に多いのですが、「(バレエという枠組みの中での)美しさ」に囚われすぎてしまって、それが身体の不自然さや、違和感を作り出してしまうことがあります。

どんな優れた芸術でも、一流の料理の世界でも、スポーツの業界でも、長い歴史の中で積み重ねられ、育まれ、磨かれてきた「美しさ(または、強さ、おいしさ、正しさなど)の基準」というのが存在します。

それは、それに魅了され、その「極み」を目指す人が多ければ多いほどに、基準は厳しくなり、その業界の「外の人」から見ると、「どれもそんなに違わないんだけどな」というものになっていきます。(最近の「体操競技」など見ていても、どこが違うのか素人目には違いがわかりません。)

その中で生きる人たちにとっては、常に「自分の表現する美しさ」が「評価」されるのが日常で、ある意味ではその「美しさに縛り付けられてしまった」ように、そのためだけに生活している人もいます。

しかしながら、その「美しさ」が、必ずしも「身体そのものが望んだもの」であるとは言い切れませんし、「身体の自然に背いている」ものであることすらあります。

バレエの世界で言うと、「プリエ」が、見る人にとっては「美しい」ものであったとしても、身体にとっては「不自然な」姿勢であることもあるのです。

別にそれが悪いというわけではなくて、その「極み」まで高められた「美しさ」は、人を身震いさせたり、思わず声が出たり、涙が流れ落ちたりするほどの「体験」を与えてくれるのは疑いようもなく、でもそれと同時に、「自分たちで作り上げた美しさ」のために、「自分が自分であるための身体という自然すら超えていこう(そして結果、自分の身すら削ってしまう)」とする、「人間の業」も感じずにはいられません。

そこまで「ストイック」にその世界にのめり込んでいない人であったとしても、少しでもその世界に生きた人であれば、「(その世界にだけ適用される)常識」というものに縛られ、そして、それに「気づく(自覚的である)」のはとても難しいことです。

ロルフィングは、なるべく「身体が元々持っている自然に還る」ように最低限の援助をしていくのですが、例えば「あなたの美しいと思っている姿勢は間違いです」と伝えたとしても、「なるほど、そうなんですね」とは、話はそう簡単には進みません。

そのために、「中立な観察者として、相手の内側からの変化を促すように、こちらからの働きかけ、介入は最低限に行うセッション」を基本として、それを「毎回テーマが違った10回のセッションを、期間を空けながら続けて受ける(つまりは、10シリーズ)」ということして、「気づかずに自分が纏っていた常識を発見し、それを外していく」のです。

ここまで書いてきてもお分かりのように、それはとても「根気強さ」と「時間」と「手間暇」がかかるプロセスなのです。

Eさんも10シリーズの最初の頃は、多少「ダンス(バレエ)という世界の常識」に絡まっていたようにも思いますが、とても繊細で、オープンな身体をお持ちの方だったので、「自分で課題に気づいて、自分で解決していった」のが、素晴らしいなと思います。

前置きが長くなりましたが、最後のセッション10の感想を見てみたいと思います。

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早いもので今日で最終回。以下、感想です。

今日は下半身が固まっている感じがあったものの、ロルフィングを始める前に比べたら、心も身体も随分軽やかになったなーと振り返りつつ最終回を迎えました。

今までは、セッション中に何かイメージや画像が浮かんでくるようなことはほとんどなかったのですが、今日はやたらと色々湧いてきました。

首の付け根あたりに手を当てられた時、なかなか身体が反応しない感じでしたが、閉じられていた水路に水が流れ出す画像が浮かんできた直後、ガチガチの左肩甲骨辺りに何かが流れ出す感覚がありました。

スタジオの天井の木目も、今まで(ゴールデンレトリバー等)とは違った画(『ムンクの叫び』等)に見えたりしました。

私の場合、お腹周りの内臓が身体を通して色々訴えを起こしていることが多いのか、お腹と腰に手を当てられた途端、全身の緊張が緩みました。同時に、頭の中であれこれ考えていたことが、皆どうってことない小さいことに思えて楽になりました。

終わって鏡を見た時、「武道の達人ぽい」というのが第一印象。ダンスをしていた時は、バレエダンサーのような身体が理想でしたが、これが自分のニュートラルな姿なんだろうと思ったし、今後また踊ることがあった場合も、この身体でやっていきたいと思いました。

その後予測通り生理がきました。先月のオープン時のストレスが相当なものだったんだなあと思い、がんばった自分を褒めてやりたい気持ちです。一方で、今回の生理のことや10回のセッションを通じて、心と身体とサトルボディの関係の密接さをさらに実感したので、日々それらを意識しつつ、ニュートラルな自分に戻っていきたいです。

しばらくは10回終わってからの心身を観察するつもりですが、メンテナンス的に伺いたくなることがあると思うので、その時はよろしくお願いします。

ロルフィングを受けるという夢がまさか山形で叶うとは思いませんでした。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

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からだゆるし

いろいろと最後に書こうと思ったのですが、ふと、このブログの中にも何度も紹介させていただいている、整体ボディワーカーの「山上亮」さんの『雑念する「からだ」』の記事のことを思い出したので、それを紹介したいと思います。

僕の中では、今回のEさんのセッション10の感想と、そしてこれまでの10シリーズを通しての変化のプロセスと、その記事の中で書かれていることとが、なんだか呼応しているように感じるので、みなさんも読んでいただけたらと思います。

それではどうぞ。

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からだのことをやっている方はよく分かると思うが、「からだをゆるめる」ということはホントに難しい。

「からだをゆるめる」ためにはまず今ある「からだの緊張」に気づかなくてはならないが、人間、 自分のからだの緊張にはなかなか気づけないものである。

このまえも久しぶりに大学時代の友人と会って話をしていたら、友人のからだの不調の話になって、 しばらく話を聞いていたらふと思い立ち、その友人の手をとって自分自身のからだの緊張を気づかせてあげようと色々動かしてみたことがあった。

最初は「ほら、緊張してるでしょ?」と指摘しても意味が分からず困惑していたけれど、しばらく動かしていたらそのうちハッと気づいて 「あ!ホントだ!」と、そのときはじめて自分がどれだけ肩に力をいれて肩肘張っていたのかを知って、「ホントにそのまんまだね。」 と感慨深げにつぶやいた。

多くの人は目の前で実際に示して指摘されても、そのことに気づくまでには時間がかかる。

それくらい人は自分のことは気づけないものであるが、たとえ自分が緊張していることに気づいたとしても、 それをフッとゆるめることができるようになるまでには、まだまださらに時間がかかる。

でもそれでも「緊張していること」自体に気づけたことが大事だ。

どれだけ指摘しても気づけなくなってしまっている人も多い中で、短時間で気づくことができたのは、 まだまだ変化する力がある証拠である。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。


しかし、こうして「からだをゆるめる」ということを日頃やっていると、「ゆるめない」「ゆるまない」 ということと否が応でも向き合わざるを得なく、それはいったいどういうことなんだろうとずっと考え続けている。

そして最近ふと思った。

「ゆるめる」ということの極致には「ゆるす」ということがあるのではないかと。

「ゆるめない」ということは何か「ゆるせない」ことがあるのではないかと。

人間誰しも生きていく中でさまざまな「ゆるせなかったこと」があることと思う。

それらさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、決してその場限りで消えてなくなっていってしまうものではない。

きちっとその場で怒りを露にして「ゆるせないこと」を表明すればまだ発散は済むけれども、それを我慢し裡に押さえていると、抑圧され、 内攻し、からだの中に凝縮されてゆく。

幼少時から現在に至るまでのさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、それはそれこそ言葉どおり「しこり」となって、 からだの中にゆるまない部分を生み出し、その近辺に緊張と硬直を作り出している。

ある経験を通じてからだがゆるみフッと緊張がとれた人が、突然忘れていた過去を思い出し、激しく感情を発露して、 そのときの心体験をもう一度経過するということがしばしばあるが、そうして改めて経過を全うさせることで「しこり」が解けて、 芯のところからゆるみはじめるのだ。

その経過はときに物凄い激しいものとなることがあり、私の知人でも医者に「生きているのが不思議だ」と言われるくらいに血圧が低下し、 必死に自分自身と向き合って克服した人がいたけれど、自分のからだと向き合うということは演出家の竹内敏晴さんが言うように、ときに 「地獄の釜の蓋を開けるようなもの」であることもある。

真に「癒える」ということは生半可なことではない。

「癒える」ということが血ヘド吐くような経過をたどることだってある。

からだには、人生のすべてが刻み込まれているもの。

それと向き合い、それを解きほぐしてゆくという作業は、「ゆるむ」という言葉だけでは言い表せない「何か」がそこにあるように思えてならず、じゃあそれは何なのかと言われれば、それが「ゆるす」という言葉で表現されるような「何か」である気がするのだ。


「ゆるめる」ことは難しい。

「ゆるす」ことはもっと難しい。

けれども、自分はいつまでその「ゆるせない」ことを抱えて生きてゆくのかと、ふと冷静に考えなおしてみれば、 なんだかバカらしいなとも思えないだろうか。

ゆるめてみたらどうだろう。

ゆるしてみたらどうだろう。

そうしたら、からだの片隅で、固まり、こわばり、止まっていた時間がゆっくりと溶け出し、流れ始めるかもしれない。

変わることなんてありえないと思っていたものが、少しずつ動き始めるかもしれない。

もしかしたら。

ひょっとして。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。

ゆっくりと。

        (雑念する「からだ」、山上 亮、『からだゆるし』より)

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からだには、人生のすべてが刻み込まれているもの。

ロルフィングというものに出会ってからは、その人とじっくりと話すよりも、「からだを触れさせてもらう」ことの方が、ずっと「その人をよりよく知ることができる」と思うようになりました。

からだは本当に「おしゃべり」で、こちらが心を開いて、ゆっくりと時間をかけると、自然といろいろなことを話してくれます。

今回のEさんとのセッションでも、お腹の辺りに手を置いていると、全身が反応しはじめて、どんどん緊張が解けていきました。

ある程度の緊張が抜けてくると、あとは「私の話を聞いて」とか、「ここにおもしろいものがあるよ」と、からだが「どこに触れたらいいのか」も、「どんな風に触れたらいいのか」も教えてくれるようになります。

なんとお気楽なと思うかもしれませんが、それが「実際に」僕がロルフィング中に感じていることです。

首の付け根あたりに手を当てられた時、なかなか身体が反応しない感じでしたが、閉じられていた水路に水が流れ出す画像が浮かんできた直後、ガチガチの左肩甲骨辺りに何かが流れ出す感覚がありました。

受け手の人が、からだを「ゆるす(ゆだねる)」状態になるまでには、少しガイドする人に「経験とコツ」が必要なのですが、そこをうまく超えられて、からだが内側から反応しはじめてくれると、あとは大きな川の流れに乗るように、するするとからだが変化するプロセスが進んでいきます。

これはロルフィングのセッションを何年もいろいろな方とさせていただいてきて、今でも本当に不思議で、おもしろいなと思っているのですが、からだに触れていると「自然の叡智」のようなものに遭遇することがあります。

それに運良く出会うことができて、そこに沿って進んでいくことができると、長年痛みに縛り付けられていたからだが、動くことの楽しさ喜びに目覚めたり、ずっとゆるめることができなかったしこりが、ふっと消えていくようなことが起こります。

10シリーズを通し、自分のからだに向き合って、そのからだに刻み込まれた情報を読み取っていくこと。

からだは本当に多くのことを教えてくれます。

これからのEさんも、このからだとともに、健全で自由で開かれた人生を歩んでいかれることを願っています。

素晴らしい10シリーズの経験を共有できて幸せでした。

ありがとうございました。




Yuta

( Posted at:2018年7月 8日 )