先日、festaが入っている「とんがりビル」で、オープン1周年記念パーティーがありました。
そのパーティーの中で、山形出身の絵本作家である荒井良二さんのライブペインティングがありました。
とんがりのお隣さんで、よく他愛のないおしゃべりをする梅木さんがDJをして、yellowwoodsさんが2台の映写機で、これまた荒井さんの手書きのフィルムを真っ白なキャンバスに投影しながら、荒井さんが即興で絵を描いていくという試みです。
絵を描くひと、音楽を流すひと、映像を映すひと、その場にいてそれを真剣に見る(観察する)ひと、なんか食べるひと、飲むひと、遊ぶこどもがいて、その「場(フィールド)」がつくられていきます。
荒井さんがメインで描いているので、「荒井さんの絵」のようにも見えるのですが、僕には違って見えました。
なんだか僕には、僕らよりももっと大きな存在に、荒井さんが「チャネリング」して、そして「描かされている」ような感覚でした。
これは「能」などでもそうで、舞台という「場」をつくり出すために、みんなそれぞれに「役割」があります。舞うひと、謳うひと、音を奏でるひと、そしてそれを見るひとにも、その役割があります。舞っている人がメインのようにも見えますが、「みんなで『能というプロセス』が生まれ出てくるようにコミット」していて、舞っているように見える人は、「舞わさている」のです。
ということで、荒井さんが描き出してくるものを「観察者」として見届けながら、「ああ、僕もこの絵に描かれているし(含まれているし)、みんなもその一部なんだ」と思っていました。
ライブペインティングが終わった後に、荒井さんは「完成はないんです。プロセスが完成というか。」と言っていました。
いろいろなことがあって、いろいろなことを抱えている人たちが、この時間に、この場所に集まった。そして、この絵が「そこで行われたもの(プロセス)の履歴(または気配)」なんだと。
ロルフィングも、僕が手で触れて何かをしているようにも見えますが、もっと大きな存在に「行く先を委ねる」ことにしています。
下にそのプロセスの気配を置いておきます。
切り取った部分にも、しっかりと何かが含まれていますね。
Yuta