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モニターCさんの感想(セッション5 | 40代 女性)

今回はCさんのセッション5です。

骨盤を自由に解放して、水平な位置に導いていくために、今回は「大腰筋」という筋肉と、内臓空間に対してアプローチをしていきます。前回が骨盤の「下側(底側)」だったのに対して、今回は「前側(腹側)」になります。

内臓は感情とも結びついているので、セッション5をすると、精神的な変化が出てくる人も多くなります。

今回のCさんも、身体と精神の関係性の変化が感想の中に書かれています。

それでは見てみましょう。

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5回目

いつもロルフィングを受ける前に大友さんとちょっとした雑談をするのが恒例ですが前回あたりから私自身の心の持ちようが変わってる感じです
前回はアレルギーのことから季節感の捉え方の違いとかでした
そして今回はその日の午前中に起こったもらい事故のような人間関係のアクシデントについて
ロルフィングに行ったら聞いてもらおうと大友さんをカウンセラーのように捉えてしまっていてそれがいいことか悪いことかわかりませんが...

ただロルファーさんというのは体だけみる人ではないと思っています


そのトラブルのせいかロルフィングが始まっても呼吸が浅くてリラックスできなくていました

大腰筋は痛苦しい感覚でお腹の中の足の付け根を感じました
ベッドから降りて足を着けて歩いたとき『違う‼』という明確な変化はなかったのですが変化は外に出てからでした
足の運びが楽で家まで走って帰りました(笑)

もっと走りたいって思いました
肩の痛みのせいでしばらく走っていなかったのですが花粉症の季節が終わった外ラン復活できそうです


それとその人間関係トラブルについても最後の瞑想タイムのときには自分なりの納めかたが見つかり引きずらずにすんでいます
この精神面のこともロルフィングを受けてなければうまく対処出来ていたかわかりません

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きちんと「やりとり」がされる、生きた会話

Cさんとはセッションを始める前に、よくお話をします。それが長くなる時もありますし、短い時もあります。人によっても違います。僕としては、自分が必要を感じて、しかもそれを楽しんでいるので、特に気にしていません。

神戸でロルフィングをしていた頃は、多くの場合、30分ほど会話をしてからロルフィングをしていました。長い人では1時間を超えることもありました。

まだまだ自営業としてロルフィングという仕事をして間もなかったので、そういった時間で、いろいろなことを、いろいろな職業、年齢の方々とお話しして、社会勉強をさせてもらっていたような気がします。そのタイミングでは、僕にはそういう「社会勉強をする」という時間が、必要だったのだと思います。だから自然発生的に、そんな時間が生まれていたのでしょう。(神戸で出会ったクライアントさんには、とても感謝しています。)

身体に触れて行うセッションもそうなのですが、こういう「やりとり」というのは、それぞれが持っている「課題(または問題意識)」が共鳴し合って、流れ、グルーブが自然に現れてきます。

僕がその時に、花粉症やアレルギーのことをなんとなく考えていると、実際に花粉症やアレルギーに悩まれている方がやってきて、自然にそういう会話にもなりますし、身体を通したセッションでも、それに関連した身体の箇所に滞り、ブロックがあったりして、何かしら関連性が関連性を生んでいくような展開になります。

僕が(意識下か、無意識下のどちらの場合であっても)何かを考えていて、受けてくれる人も同じようなことを考えていると、その二人が引き合って(導き合って)、セッションをすること(ただ会って、だらだら話せばいいのではなく、きちんと「お金が払われる」という状況で、何かが「執り行われる」ということ)になり、そしてお互いに、深い気づきを得ることができます。

人は一人では、ユニークで刺激的なアイディアや、偉大な考え、深い学びを得ることは難しく、心許せる友人や、家族、パートナーとの会話であったり、自分を包んでくれる大いなる自然とのコミュニケーションであったり、そういう「やりとり」が必要になってきます。(歴史上のどんな素晴らしく秀でた仕事をした人にも、必ず何らかの「やりとり」が存在します。)

これは、クライアントさんの問題意識が、僕の意識に反映されて、僕がその問題を、クライアントさんに考えさせられているとも言えますし、僕の問題意識に、何かしら答えをくれるクライアントさんが、集まってきてくれているとも、どちらとも言えるような気がします。

ロルフィングのセッションというやりとりを通して、僕はその場でクライアントさんと向き合い、こちからから何かを差し出し、そして何かを受け取ります。これが楽しくて、僕はロルフィングをしているようなものです。

なので、クライアントさんがセッションルームに来てくれる時には、「今度は、何を教えてくれる(または気づかせてくれる)のかな」とワクワクしています。(もちろん、そのために僕は真剣に身体を調整します。)

身体を介しての、ロルフィングという非言語なやりとりをすると、セッションが終わった後に、クライアントさんの「語り」が始まることもあります。

まるで「イタコ(あるいはシャーマン)」のように、その時の僕に必要なことを、こんこんと語ってくれるのです。

90歳近くのおばあさんが、セッション後に、肌全体に生命が通ったような明るい色を取り戻し、そして、「命とはどういうのものか」などを語ってくれたこともあります。とても不思議な体験でした。

自分がクライアントさんの身体を、然るべき技術で緩め、解放することができると、クライアントさんの身体が「通路」となって、僕が何か「啓示を得る」ような体験です。(こうなると、どちらがセッションを受けているのか、分からなくなってきます。笑)

前回の感想でCさんが、「毎回何かしらのプレゼントをいただいております」と書いてくださいましたが、こちらもとても大切なプレゼントをいただいている感じがします。

ロルフィングのトレーニングを卒業する時に、「これからはベッドの上にいるクライアントさんが、あなたたちの「先生」なのよ」と、先生がお話してくれたのを思い出します。そうやって、身体に触れることを仕事にしている人たちは、育てていってもらうのだと思います。


「純粋な黒」のような出来事

ロルフィングを勉強し始めてから、すべてを「関係性」の中で見ることができるようになりました。別の言い方をすると、物事を「相対的」に見れるようになりました。

目の前に怒っている人がいたとしても、「他人は自分を写す鏡だから、自分に起こっている感情があるから、それを教えてくれているんだな」と考えことができて、怒っているというネガティブな状況も、ポジティブな文脈に置き換えることができます。

何か悪いことをした人のニュースを見ても、すぐに「こんなことするなんて許せない」と怒るのではなく、その人が置かれていた状況を想像して、「自分がもしも同じような状況にいたとしたら、そういう行動をするのも、分からないでもないな」と、その人の悪いこと(症状)だけを見ず、それが出てきた背景を丁寧に観察します。(もちろんこれは、犯罪行為などを肯定するわけではありません。それなりの償いを受けなければいけないと思います。)

なので、知り合いの人に「〇〇さんってありえないですよね?」と言われても、「〇〇さんも、もしかしたら、僕たちが見えていない事情があったのかもしれないから、なんとも言えないですね」などと答えて、「大友さんって、嫌いな人とかいないんですか?」と聞かれることもあります。

でも、僕はそんなに嫌いな人はいません。苦手だなと思う人がいますが、嫌いだと思う人には、僕は適切にロルフィングができるとは思えないのです。そして僕は、どんな人にでも、頼まれたらロルフィングをしたいなと思っています。

もしも犯罪を犯した人がいて、それが許せない行為だったとしても、その人に「なんとかロルフィングしてくれ」と、正直に、素直に頼まれているなと感じたら、僕はロルフィングしたいと思うタイプの人間です。(まあ、そんな状況はないとは思いますが。)

そうやって物事を相対的に、関係性の中で見れるようになると、「思考が現実をつくる」というコンセプトを、自然に受け入れられるようになってきました。

何か悪いことが起きたとしても、それは自分がそんな思考を抱いたから(そんな現実を望んだから)、それが目の前の現実に具現化されてきたのだと考えるということです。

そのコンセプトで世界を眺めると、自分をどんどん客観視できるようになり、自分の立ち位置が把握できるようにもなったのですが、逆に自分から「もう一人の自分」が分離して、それが常に自分を監視していて、行動の一つ一つを裁くような感覚にもなってきました。

少しでもネガティブなことが起きると、それは「自分が悪い思考をしたから」と、自分で自分を罰するようになり、それがいき過ぎると、天気が崩れ雨が降ってきただけでも、自分を責めるようにもなってきます。これはとても危険なサイクルです。自分で自分を「いじめている」のです。

そんな時に、ある不思議な出来事が続けて起こるようになってきました。それは、感情的な自分を丁寧になだめて、熱していない冷静な頭で、視野を広く、想像力を豊かにして、時間を使って考えてみても、どうやっても、どんな関係性(関連性、必然性)も見出だせない、ただ「純粋な黒」のような色をした出来事でした。

それは純粋に黒く、まるでブラックホールのように、光や、時間や、意味も、すべてを吸い込んでいってしまいます。

どう理屈で考えても、自分の望んだ思考の結果でもないし、関連性もないし、Cさんの言葉を借りるなら「もらい事故」のようなイベントが起きるのです。(「グレー」な要素や、一切の想像力も入り込む隙間がないのです。)

僕は最初戸惑いました。もしも「思考が実現する」というのが本当で、それによってこの出来事が起こっているのなら、「こんなにもピュアな、黒い思考、感情が自分の中にあるのか」と、自分が怖くなったのです。自分の知らない自分がいるかのような。

そんな出来事がいくつか続けて起こり、自分も疲弊していきました。どうにも光が見えそうにもない状況が続きましたが、なんとか耐えていると、少しずつわかってきたことがありました。そういった出来事は、僕の思考が具現化したものではなく、違う目的を持って現れてきたものなのではないかということです。

それは、「関連性の中で、いろいろなことを〈ゆるせる〉ようになる」というトレーニング、課題を与えられていた自分が、もうそこでの学びは終了して、「もう一つ違うレベルに進むための試練(課題)」なのだと気づきました。どんなに器用な関連性のネットワークにも拾い切れず処理できない出来事に対して、どう対応していくかということです。

純粋な黒のような出来事は、とてもショッキングです。なぜなら何の脈絡もないのに、突然、何かを奪われるような感覚です。その力は強力で、先に書いた、まさに「ブラックホール」のようです。自分の存在すら吸い込み、それを消し去るようなパワーを持っています。

でも、それに「屈してはいけない」というのが大切です。とても苦しいのですが、負けてはいけないのです。そして同時に、「勝つ必要もない」のです。(映画『シン・ゴジラ』は、ゴジラに勝ったわけではありません。それを常に眼にし、気にかけながらも、一緒に生きていくということです。)

屈しないためには、こちらも「体力」が必要です。そして、それを助けてくれる「サポーター」が、適度に必要になってきます。(この際のサポーターは、どうすればいいかという「答え」をくれる必要はなく、ただただ「勇気づける」ことをしてくれるだけでいいのです。)

僕はこれらのことを、村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んで学びました。(上に書いたように、『シン・ゴジラ』も重要なことを示してくれました。)

Cさんがセッション前にお話していただいた内容は、詳しくは言えませんが、何の関連性もなく、Cさんに何か反省するような点もなく、ただただ突然現れた「純粋な黒」のような出来事でした。

よくよく話を聞いてみると、Cさんは屈することなく、そして争うこともなく、ただこの先の行方を見届けようとする強い意志がありました。とても強い方だなと尊敬しますし、僕はそのサポーターになれたらと思いました。

ロルファーとして、僕がサポートできることは、必要な会話をして、そして身体の構造が、重力のある空間、場に、あるべき関係性、秩序を持った状態で整ってくることで、その人を貫き、支えてくれるラインの力が生じてくることを引き出してくることです。(何とも回りくどい言い方です。)できることは微力だと思いますが、できることを一生懸命させていただけたらと思います。

すごく大げさなことを書かかせてもらいましたが、「災害(または事故)」で身近な人を失った方は、その出来事に、何の関連性も、必然性も、脈絡も感じることはできません。ただただ、自分の大切なものを突然奪われて、自分の身体にぽっかりと穴が開き、そこに「純粋な黒」が生じてしまったような感じだと思います。

この東北には、とても大きな災害があり、その時に開いてしまった「純粋な黒」の穴は、今もなお開いたままです。

僕らはその「絶対的な闇」に屈してはいけなくて、そして勝つ必要もないのです。

そのために必要なものは、答えではなく、継続的なサポート(愛、関心)なのです。

この東北で、身体の痛み、不調にフォーカスした「治療」ではなく、ロルフィングをするという意味を考えます。これからも、自分のできる仕事をしていきたいと思います。

大きな話になりましたが、Cさんが次のセッション6、そしてこの10シリーズで、身体が制限から解放され、心身ともに自由で健やかになっていくことを願っています。そしてそれを楽しみにしています。




Yuta

( Posted at:2017年4月 7日 )