人にはそれぞれ、
心地のいいペース、速さというのがあるんだと思う。
早足の人は、歩くのが速い。
目的地に到達することを決めているから、
いかに最短で効率的に歩くかを考える。
見えている景色は、どんな風に流れるんだろう。
いや、景色は見えていないのかもしれない。
もっともっと速い人もいて、走る人もいるだろう。
タイムを気にする人もいるし、
走る風の中に季節を感じる人もいる。
人のすすむ速さは、人それぞれだ。
僕はいろいろと遅いことが多いと思う。
目的地を決めないことも多いし、
行くまでのみちのりがたのしければいいと思ってしまう。
基本的には、遅い方だと思う。
というのも、速い方が心地のいいときもあれば、
めっきりと遅いときもあるし、
移動しないこともある。
要は、「心地がいいかどうか」が重要だ。
何か家のことをしているとき、
「ああ、やりたくないな」というものもある。
けど、それが気にならないときもある。
それは、何が違うんだろうと考えた。
僕は、「自分のペースでできる」ときは、
家事をしていて楽しいのだと気づいた。
やる順番も効率を考えず、心地のいいペース、速さで、
そして、その後に予定が詰まっていなければ、
時計とにらめっこすることもない。
けど、もしも時間が決まっていたら、
効率を考えて、なるべく最短で、最小限の手間で、
速くしなければいけない。
そこに心地よさは感じにくいのだと思う。
目的地があるから、
そこに今いる場所が目的地ではないことになる。
何時までに終わらせるとなるから、
楽しいはずの家の仕事が、
あっている、まちがっているが生まれてくる。
同じ家の仕事が、まちがってくる。
人生では、生きていると、
考えもせずに、いろいろと決まりごとがふえてきて、
何時に終わらせるとか、
なるべく早くとか、
何が一番効率的かとか、
それを選んだ理由はとか、
いろいろと縛られてしまう。
あるとき家族全員のふとんを畳んでいて、
「なんでこんなことしなきゃいけないんだろう」と
思うことがあった。
それは、
こんな日はゆっくりと本を読みたいとか、
この仕事は奥さんがするべき仕事だとか、
9時までに保育園に行かなければいけないとか、
そんなことに囲まれていると、
とたんにそれは、楽しさを失う。
人にはそれぞれ歩くスピードというのがあって、
それに気づけて、それをたいせつにできた人は、
きっとしあわせなんだろうと思う。
でも、人は囲まれているものの中や、
自分を縛っているものの中にたいせつさを見つけるから、
自分の歩くスピードを見つけて、
それを心地いい感じでつづけていくことに、
たいせつを見つけにくくなってしまう。
いろいろとたいせつなものはあるけれど、
自分のペースで歩くことが、
僕はたいせつなんじゃないかなと、
いろいろな人を見ていてかんがえた。
自分の心地よいスピードをたいせつにすることは、
自分をたいせつにすること。
そこにまちがいはない。
けど、目的地をたいせつにしてしまうと、
まちがいが出てくる。
「その人の幸運なペース」はかならずある。
それを見つけられるかどうか。
それは人より速いとか、遅いとかは関係ない。
自分が心地よく、楽しいのかどうか。
歩く速さなんて、効率的かどうかなんて、
あまり関係ない。
Yuta