「バ(バス)!」
「トック(トラック)!」
「アンマン(アンパンマン)!」
「むち(虫)!」
「ピーコー(パトカー、救急車、消防車まとめて)!」
息子が突然指差して叫びます。
けど、差している方向には、叫んでいる対象物はありません。
それでもずっとその名前を呼び続けているのですが、
あとあと気づきます。
やはりそこにそれはあるのです。
交差点で止まっていても、動き始めると、
銀行のノボリの中に、小さなアンパンマンがいたり、
よくよく目を凝らしてみると、そこに小さな虫がいたり、
ビルに隠れて、鼻だけが飛び出していたバスがいたり、
いつも僕らが驚かされます。
「おとなでも見つけられないものを、こどもは見つけます。」
でも、本当にそうでしょうか。
そう考えているのが、
ちょっと違うのかもしれないなと思ってきました。
その感覚は、「大人の方がよく見えている」というのが、
前提にあります。
何か見たり、探したりするのは「大人の方が優れている」。
けど、本当にそうなんでしょうか。
こどもを育てていると、
「こどもはすでに完璧なんだ」と気づき、ハッとします。
こどもは、まだモノとモノとがあいまいな、
モノとコトとが未分化な、
硬く閉じられ、動きに乏しい、意識でできた世界ではなく、
自由に開かれ、さまざまなやりとり、交流がそこにある、
ファンタジーの世界に生きています。
そこには、バスが多くいます。
だから、バスがすぐに見つかるのです。
バスしかいないのですから。
そこに少しずつ、パトカーだったり、
アンパンマンだったりが増えてきます。
その世界には、それしかはっきりしたものはありません。
しかし、そんな世界にいられる時間は長くはなく、
気がつくと、多くのモノで溢れかえった、
僕らに馴染みのある世界になっていくのでしょう。
おとなの僕たちには、何が見えているんでしょうか。
たくさんの見えるモノの中からから、それが見えるというのは、
おとなの場合は、そこには「フィルター」があります。
たくさんのモノの中から、それを「選択的」に見ています。
それは今までの人生で、頭の中で重み付けが行われてきて、
それに応じたフィルターがつくられ、
それを通して世界を見ています。
自分の利益になるものしか見ない人もいますし、
女の人ばかり見える男性もいます。
けど、こどもの「バスを見つける目」とは違います。
「それしかない」のか、「それを選んでいる」のかは、
全然違います。
それを選んでいるということは、他を選ばずに、
見ないようにしているということです。
こどもは、見ないようにしているのではなく、
それしか見えないのです。
おとなの僕らは、いかに見えていないんでしょう。
いや、見ないようにしているんでしょうか。
多くのモノに囲まれすぎてしまって、
たくさんの意味に自分ががんじがらめになって、
自分を揺さぶる、魅了するものがそこにあったとしても、
向こうが見つけてくれるのを待っていたとしても、
「そこには何もないよ」と言ってしまいます。
こどもを育てることは、
もしもそれを育てるおとなが、わずかにでも幸運な場合は、
そんなこどもの世界に少しアクセスできる、
そんな機会なんだと思います。
「ああ、はじまりはこうだったんだ」
はじまりの景色がふと垣間見えて、
大切なことを思い出すような感じがあります。
Yuta