ロルフィングハウス フェスタ FESTA

カテゴリー

最近の記事

月別アーカイブ

モニターBさんの感想 (セッション10 | 40代 女性) 序編

いよいよモニターBさんの10回目のセッションが終わりました。

痛みだらけの身体の悲鳴が聞こえてくるようでした

最初にロルフィングを受け始めた時には、上のような言葉が感想にあったほど、過去のケガや手術などによって、身体は「痛みに縛られて」いて、自由で快適である「健全な状態」からは、かなり距離のあるところからのスタートでした。(詳しくは、「Bさんのセッション1」をご覧になってみてください。)

それでも、ロルフィングの目的は、「痛みや不調を治療する」ことではなく、「身体が元々の秩序、調和、統合された健全なバランスを取り戻していくようにサポートする」ものなので、「痛みだけに焦点を当て過ぎない」ようにしていました。

痛み」を「取り除くべき悪しきもの」と捉えるのではなく、その人が「自分の全体性を回復するために、必要があって出てきたもの」、または「身体が何かを訴えようとしているメッセージ」と捉えるのとでは、とても大きな差があります。

この「痛みに対する態度」の方向性は、前者であれば、意識は「自分の外側(腕のいいお医者さん、よく効く薬、話題の健康グッズなど)」に向かっていきやすくなりますが、後者は「自分の内側(身体の感覚、気づいていない自分の気持ち、精神状態など)」に向いていきます。


よしもとばななさんの本の中に、『体は全部知っている』というタイトルのものがあります。

施術者であるロルファーが「痛みという課題」と直面した時には、まさにそのタイトルのように、「(全部知っている)身体からのメッセージ」としてそれを捉え、受け手の方の身体は「(痛みを通して)何を伝えようとしているのか」を、時間をかけて丁寧に「翻訳」していくように努めます。

身体は、本来はとても「素直」なので、その人を「苦しめよう」などとは思っていません。

例えば、「小さな子ども」が、大声を出したり、いじわるなことをして、「母親を困らせている」ように見えることがありますが、それは「(母親に)関心を向けてほしい」だけというのがほとんどで、その「メッセージが確かに伝わった」と感じると、すぐにその態度は変化していきます。

中には、すごくたくさんの「メッセージ」がありすぎて、「結局、何を伝えたいのか」というのが、「混乱していてわかっていない」子どももいます。(小さい子どもは、よくそういうことがあります。)

そういう時には、親が「今していること(料理を作っている、スマホを見ている、友達との話に夢中になっているなど)を一旦やめて、きちんと子どもに向き合って、ゆっくりと話を聞いてあげる」ようにすると、子どもは「自然と落ち着いてくる」ようになります。

これはロルフィングでも同じで、身体が「(痛みによって)何かを訴えたい」とその人に対して思っているのに、それを「聞こうともせず」に、「(薬や治療などで)すぐに取り除こう」としてしまうと、身体は「無視された」と思ってしまうかもしれません。

そうなると、「もっと痛みを強くしよう(強化された反応)」となったり、「違う場所、形で痛みを出そう(反応の転化)」などとなっていくことがあります。

これは、「身体」と「(その人の都合、考え)」との「意思疎通コミュニケーション)」が、うまくいっていない状態です。

そういう時に、ロルファーが「間に入る」ようにして、「10回の身体へのインタビュー」を行うことで、そのメッセージを通して「何を本当に伝えたいのか」ということを、一緒に明らかにしていこうとするのが、ロルフィングの「10シリーズ」になります。


その「10シリーズ」を、Bさんは他のモニターの方よりもゆっくりの「1ヶ月に1回」ペースで受けてきました。

「セッションの間隔はどれくらいにしたらいいですか?」と、よく聞かれることがありますが、通常は「1〜2週間に1回」くらいのペースが推奨されていて、長くても「1ヶ月に1回」とお答えしています。

身体が「元々の健全な状態に還っていく」のにも、人それぞれの「プロセス」があるので、それに適した「頻度」も当然あります。

仕事が忙しく、なかなか自由にできる時間がなかったり、1週間に1回だと金銭的に厳しかったり、受ける方の個人の生活、仕事の状況、そしてもちろん身体の状態などのお話を聞いていくことで、「この方なら2週間に1回がいいかな」と、なんとなく「ロルファーにとっても、クライアントの方にっても、双方にとって」いいところに収まっていきます。

他のモニター方のブログをご覧になっていただいた方はわかるかと思いますが、ロルフィングのセッションでは本当にいろいろなことが起こります。

起こることの中には、僕の頭で理解できるものもあれば、そうではないものもあります。

今回のBさんの場合も、最初の頃の、痛みや違和感がかなりあった苦しい状態から、今回の10回目の最後の感想のように、「痛み、苦しみから解放された状態」になっていくまでを今まで書いてきましたが、「そこで起こったことのすべてを理解しているか」と言われると、すべてではありません。

けど、どんな状態の人であれ、「10シリーズを受けます」と決めた方との「変容の旅」は、「必ずしや、いい方向に導かれていくであろう」という「根拠のない自信」は持っています。

自然の叡智が具現化エンボディメントした存在である、身体」と、「(それに向き合う方法としての)ロルフィング」のことを、僕はとても信頼しているのです。

ロルフィングを受け始める方の多くは、「ロルフィングって何かよくわからなかったんですけど、なぜか受けようって思ったんですよね」という人がほとんどです。(僕もその1人です。)

その方々は、ロルフィングに「何か惹かれるもの」を感じ、そこに「希望のようなもの」を見出しているのかもしれません。

今回は、「それが何であるのか」を、禅の「十牛図」との関連を含めて考えていけたらと思います。

最初に書いておきますが、「ロルフィングと十牛図が関連している」と考えているのは、あくまで「僕個人の見解」で、すべてのロルファーが考えていることではありません。

そして、「十牛図」の解釈も様々あって、そしてとても「哲学的」です。禅の修行を気の遠くなるほどの時間されてきたような方が、ようやく少しずつ見えてくるものがあるような世界だと思います。

ロルフィングは、「(重力空間の中で)身体の構造のバランスを整える」ことを目的にしていて、「身体の構造をどう捉えて、どう観察して、どんなことをしていくのか」ということに関しては、Bさんの10シリーズの前半にも、他のモニターの方の記事にもいろいろと書いてあります。

あくまでそこが「(ロルフィングの)基本、土台」であって、今回のこの考察は、「ロルフィングは身体の構造のバランスを整えるが、それだけではなく、その過程の中で様々なことが起こる」ということを、僕個人の考え、体験を踏まえて、あえて「踏み込んで」書いてみようと思ったものです。

ロルフィングの中にある『何か』を掬いとる」ための「言葉の旅」とも考えられるかもしれません。

長さもかなりあるので、「序編」「破編」「急編」と「三部作」として、「はっきりとした、明確な答えを得ること」は目的としていません。

他のモニターの方のブログの記事をいろいろと読んで、「さらに深い世界がありそうで興味がある」という方は、この先の「身体というどこまでも深く、広い自然への永い旅」にお付き合いいただけたらと思います。

それでは、Bさんのセッション10の感想をどうぞ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日は最後の施術、ありがとうございました。

本当に身体が軽くなって、通い始めた10ヶ月前の痛みや不調が嘘の様でした。

またあの頃の様に戻ってしまわないかお聞きしましたが、よほどの生活の変化や身体への負担が大きくならない限り、5〜6年は何もしなくても大丈夫との事。

身体の基本を整えたから大丈夫だと説明していただき、基本の背骨、大切なんだなぁと改めて実感です。

ロルフィングの素晴らしさを身体をもって体験でき、感謝しております。

ぜひ、一人でも多くの人にこの身体の心地よさを感じていただける様に、話していけたらと思っています。

大丈夫と言われたものの、先の事は不安が消せない為、気になり始めたらまたぜひ相談させていただきたいと思っております。

長い間ありがとうございました。
本当に感謝でいっぱいです。

※全体の内容が変わらない程度に、加筆、修正しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「フォード」と「ジャガー」

僕自身がロルフィングを受け始めた時、最初に思った疑問が、「どうして10回なんだろう?」ということでした。

「身体が良くなるんだったら、もっと短くてもいいと思うんだけど」とも思っていましたが、10回のセッションにはそれぞれに「テーマ」があって、達成したい「ゴール」があります。

・・

"Rolfing is permanent.  after you're Rolfed you're like a Jaguar. No matter how long you drive a Jaguar, it's not going to turn into a Ford. "  - Ida P. Rolf, Ph.D.

ロルフィングの効果は永久に続きます。 ロルフィングを受けた後、あなたはジャガーのようになっているでしょう。 どれだけ長く運転したとしても、ジャガーがフォードに戻ることはありません。

・・

ロルフィングを受けると、フォードという「大衆車」が、ジャガーのような「高級車」になって、またフォードに「戻ることはない身体の変化は継続する)」という、ロルフィングを始めた「アイダ・ロルフ」さんの有名な言葉です。

つまり、ロルフィングでしているのは、「フォードの修理」ではなくて、「フォードがジャガーになるほどの変容が起こり、それが持続する」ということで、10シリーズを受けている時には、僕自身もそんな感覚がありました。

セッションを受けた後に、「あれ、これが自分の身体か?」と驚くほどに、身体の性能が「アップグレード」されている感じです。

そして、身体の性能が向上するだけではなく、10シリーズの後半になってくると、身体の「感覚が開く知覚が広がる)」ようにもなってきて、より「微細なタッチ」にも反応できるようにもなってきます。

さらには、意識が「瞑想」状態にもスッと入りやすくなってきて、そこで昔の思い出が蘇ってきて、「深い気づき」を得たり、ふとアイディアや言葉が「降りてくる」ような体験もしました。

そこまでの体験をすると、ロルフィングの10シリーズは、ただ「身体の痛みや不調を取り除く」というものでも、「疲れた身体のリラクゼーション」を目的にしているものでもなく、「10回」というのには意味があって、「なるべく回数は少ない方がいいのではないか」とも思わなくなりました。

ロルファーになって「10年以上」になりますが、10シリーズをやればやるほどに、「不必要なセッション」というのはなくて、「順番」もよくできているなと思います。

日本には「型を継承する」文化がありますが、「これって意味なさそうだから、省略してもよさそう」と思うものでも、その型を「稽古すればするほど」に、その「」に「自分という存在が馴染んでくる自分が書き換えられていく)」ようになり、そこで初めて得られる「境地」があるのだと思います。

ロルフィングというのも、アイダさんは「口伝による継承」にこだわり、「教科書を作らない」ようにしたもので、ある種の「」だと考えることができます。


「技術の伝承」としての「10シリーズ」

その「10シリーズ)」の中に、僕たちロルファーは「アイダさんの見ていた世界」を想像します。

もちろん、これには「1つだけの正解」というの存在しません。

ロルフィングの優れた先生は、世界中にたくさんいますが、その先生「それぞれの見解、解釈」があります。

先ほど、アイダ・ロルフさんは「教科書を作らなかった」と書きましたが、そのために、アイダさんに直接教えてもらった先生に学ぶ機会がある時には、「アイダさんはどう考えていたんですか?」などと聞いてみたり、それに関するエピソードを誰かに教えてもらったりしながら、ロルファーは「自分なりの解釈」をこしらえていきます。

僕の「10シリーズの理解」を深めてくれた先生は2人いるのですが、1人目は「エメット・ハッチンスEmmett Hutchins)」さんという方で、残念ながら数年前に亡くなってしまいました。

下段中央の「ハートがオープン」な方が、エメットさん

エメットさんは、ロルフィングの創始者のアイダ・ロルフさんから、「最初にロルフィングを教えるインストラクーとして指名された人」で、アイダさんのスタイルに一番「忠実」で、まるでアイダさんの「生き写し」のような人ではないかと、僕は感じています。

ハワイのカウアイ島で行われた、1週間ほどのワークショップに参加して、そこで学んだだけですが、エメットさんの「佇まいハートが開かれていて、大きな愛で包まれるような感覚)」に大きな影響を受けました。僕は、アイダさんには会いたくても会えないので、エメットさんの「存在」を通して、「アイダさんが見ていた世界」に少し触れられたような気がした、とても貴重な体験でした。

2人目は「エドワード・モーピンEdward Maupin)」さんという方です。アメリカで初めて、「」に関しての論文を書かかれたほどの、とても聡明な方で、実際のロルフィングの「スタイル」も、とても僕は参考にしています。

下段ちょうど真ん中の方が、エドさん

アイダさんが「教科書を作らなかった」のは事実なのですが、実は、アイダさんはエドさんに「本を書くこと」を勧めていて、下の2つの本『重力とのダイナミックな関係性』をエドさんは書き上げました。公式ではないのですが、多くのロルファーに「教科書のように」読まれている素晴らしい本です。

  

この本を深く読み込んだこと、そして、エドさんは数年前までは毎年日本でワークショップを開いていたので、それに何回か参加することで、「10シリーズの理解」を深めていきました。

"It is simple, but not easy. It can be learned.(それはシンプルだが、簡単ではない。そしてそれは、学ぶことができる。)"

その本には、こう書かれてあって、「(職人的な技術の伝承」の本質を表しているように思います。

日本には多くの「職人」さんがいますが、その技術が熟練していればしているほどに、見た目にはとても「シンプル」に見えます。けれども、実際にそれをやってみると、それは「簡単ではない」ことがすぐにわかります。

それでも、「10年やって一人前」という言葉もあるように、それを然るべきところで「修行を積み重ねる」と、それは「学ぶこと伝承すること)」ができます。

アイダさんから、その技術がその弟子たちに渡り、それがこうして日本の山形にいる僕のところまで伝わっているということに、「ロルファーであることの誇り」を持っていると同時に、まだまだロルファーとしては10年ほど経過しただけなので、日々のセッションを丁寧にやっていって、この「伝統を守る」ように活動していきたいと思っています。


「10シリーズ」と「十牛図」

先ほどのエドさんの本には、ロルフィングの「10シリーズ」について、それぞれのセッションで何を目的にしていて、具体的に何をしていくのかが丁寧に書かれているのですが、その中に禅の「十牛図」も紹介されていて、「10シリーズ」とそれが「呼応」しているのではないかと考えさせられる内容です。

十牛図」とは、禅においての、修行の始まりから、その極地である「悟り」に至るまでの「プロセス」を、「牧人自分が牛真の自己を追い求める物語」として、「10枚の絵」によって描かれています。

十牛図」で説こうとしている「悟り」とは、「真の自己とは何か」ということであって、その悟りの象徴として「」が登場してきて、10枚の絵を順に辿っていくことで、「自己を知る」という段階が示されているのです。

この「十牛図」を、「ダンス」によって表現するという、とても興味深い試みをしている方々いるのですが、まずはその動画を先に観ていただけたらと思います。

ざっと、どんなものかがわかるかと思うので、その後に、10枚のそれぞれの絵について書いていこうかと思います。


なかなかに興味深く、そしてどこまでも深い「プロセス」だと思います。

10枚の絵」には、それぞれその「解説文」も添えられているので、その「現代語訳」をところどころで紹介しながら、僕なりの「(十牛図の)解釈」と「10シリーズと呼応するところ」を書いていきたいと思います。

もちろん、「悟った」身分ではありませんので、至らないところ、筋が見えにくいところ、わかりにくいところなど、いろいろとあるとは思いますが、楽しみながら読んでいただけたらうれしいです。



第一図「尋牛(じんぎゅう)」
"Searching for the bull"



真の自己、悟りを追い求める旅のはじまり

仕事、子育てと人生を忙しく、必死に生きてきた時に、ふと「自分という存在」、そして「周りの状況(仕事場、家庭内の現状、社会の動向)」に疑問を持つようになり、自分の中に「痛み」や「苦しみ」があることに気づく。

とはいえ、誰に相談していいのか、どこに進めばいいのかもわからずに途方に暮れ、それでも毎日は過ぎていく。季節がまた、何も語りもせずに、私の前から去って行ってしまった。

きっかけは忘れてしまったが、「旅に出よう」と思い立ち、今までの環境を一度離れ、山や川を分け入って、「自然の中」に入っていくことにした。そこに「何かがあるのかもしれない」気がして。


○セッション1
呼吸の解放によって、身体が空間に開かれ、広がっていく

きっかけやタイミングは人それぞれですが、自分の今の状況、周りとの関係性に、何か「違和感」を感じている人は、意外と多いのではないしょうか。

中にはそれが、「身体の痛み、不調」として感じられる人もいれば、「霧がかかったような、漠然とした不安」というような、何かはわからないけれど、「このままではいけない」という直感として感じている人もいると思います。

それを教えてくれるのは、「自分の身体の声」であることが多く、それに気づいた人は、ロルフィングをどこからか探し出して、それがどんなものなのかもはっきりとはわからずに、それでも何かしらの「希望」を感じてくださって連絡をしてくれるような気がします。

実際に、「なぜロルフィングを受けようと思われたのですか?」と質問すると、大半の方が、「(身体の不調の有無は問わず)なんとなく」と答えられます。

十牛図の場合は、第一図の「尋牛」で、そうやって「違和感」を感じた牧人が、「自然の中」に入っていく様子が描かれています。

現在の日本は、「地方ブーム」とも呼ばれるほど、都会での生活に疲れた人や、何か違和感を感じた人が、自然の多い地方に「移住」してきて、そこで農業を始めたりする若い人たちも増えてきています。(実際に、ここ山形でも同世代で移住してきている人たちが多くなってきています。)

「移住」までしなくても、週末には登山をしたり、山でのアクティビティを楽しむ人も増えてきて、「アウトドア」もブームになっていますが、個人の問題意識がどれくらいなのかには差があるとは思いますが、「自然を求めている」人が多くなってきているように思います。

ロルフィングの「セッション1」では、「呼吸」に焦点を当てて、それを「制限しているものから解放する」のが大きな目的になります。

具体的には、「上肢肩甲帯と下肢骨盤帯とのバランス」を取り、「軸骨格(頭蓋骨、脊柱、胸郭)から付属肢骨格(四肢)を分離する」ことで、「呼吸」は元の「自由さ」を取り戻していきます。

身体」というのは、ある意味で「自分の中の自然」、「いちばん身近な自然」だと考えることができて、「呼吸」というのは、その自然の「天候」を表現しているとも言えます。

呼吸が自由である」ということは、「身体という自然を構成する様々な要素が、すべて調和が取れている状態」ということになり、多くの身体に関わる治療法、健康法では「呼吸」をすごく大事にしているのも、そういう理由があります。

呼吸に向き合う」ということは、自分の「身体の中にある自然」に入っていくための、「最初の入口」になります。

自然の中に入ろうと思っても、雨が降ったり、風が強かったりすると、自分の思うようにはいきません。

自然の中では、自分の思うようにはいかず、「まずは天候を感じ、それに合わせるしかない」のです。

ポイントは、いきなり「呼吸をコントロールする」のではなく、「身体という自然に調和するために、まずは呼吸を感じてみる」ことです。




第二図「見跡(けんせき)」
"Finding the footprints"



牛の足跡を見つけ、それを辿っていく

」に出ることで、人は様々なことを経験します。

自分では「コントロールできないこと」や、「ただ受け入れなければいけないこと」が起こり、今までの自分の人生を振り返ることが多くもなります。

逆に言うと、「自分の人生を振り返るため」に、人は「」をするのかもしれません。

その移動する道中や、「しなくてはいけないことが何もない時間を過ごす」中で、「本を読む」時間も増えて、その中で、「自然の真理、叡智」があることを知るということがあります。

すでに、昔の人たちは気の遠くなるほどの時間をかけて、自然の中から多くのことを学んできました。それを今、自分は「本を通して」知ることができて、目の前で起こることの中に、その「足跡」を感じられるようにもなってきます。

自然の中に入り、ただ自然に「翻弄される圧倒される)」だけではなく、その移ろいの中に、「何かを学び始める」のです。

それでも、そういう事に気づけるようになったのも、違和感を感じ旅に出ようと思ったのも、今まで必死で生きてきた「(自分の人生の)足跡」があるからでもあります。

何も達成していない、平凡な人生だと思っていたけど、「目の前の自然の中に感じる、真理、叡智」と、「自分の人生の足跡」とが、ふと「重なっている」ように感じることもある。

まだまだ迷いは多いけれど、「自然の真理」と、「自分の足跡」とが「重なる」ことを信じて、この先も歩いていく。


○セッション2
地面とのつながりとしての足が自由になる

十牛図の第二図「見跡」の場面では、「本や経典などから仏の教えの存在を知る」ということが示されています。

いろいろと迷いながらも自分の人生を生きてきて、悩みながらも歩んできたからこそ、「仏の教えに触れた時」に、そこに「足跡」を見出すことができるのだと思います。「何も経験していない、まだ自分の足で人生を歩いたことのない、若い自分」が、同じように「本、経典」に触れたとしても、何も感じなかったかもしれません。

また「足跡」とは、「地面と自分との関係性」を示してもいます。

悟り」に至ろうと思えば、「知識、教養を身につけること」も大切であって、それが自分の「下地地面)」になり、その上に何かを「積み重ねていく」こともできます。

「(本、経典による)知識、教養」が「地面」になるとして、それがすべて大切なのではなく、「どこに足跡を残してきたのか自分はどこを歩いてきたのか)」が大切になります。

自分の人生を歩いて」きて、それが「知識、教養という地面」に触れた時に、「あ、この本で書かれてある仏の教えは、自分の人生のあの場面のことだったんだ」と「重なる気づく)」のです。

ロルフィングの「セッション2」では、「地面と足とのつながり」に注目して、「足、下腿へのワーク」を中心に行います。

100年以上前の時代を生きていた、私たちの祖先の人間たちは、「地面との親しい関係性」を維持していました。

道は「舗装」などはされずに、一歩として「同じ地面均質で、平らな地面)」は存在せずに、それをほぼ「裸足に近い状態」で、歩いていました。(それも、今よりもずっとずっと長い距離を、毎日のように歩いていたのです。)

「地面」の方が「刻一刻と変化する」ので、「」はそれに瞬時に対応できるように、「やわらかな」状態を保って、一歩一歩「考える計算する)」ようにしていたのです。まさに、「考える足」です。

やわらかで、自由に動き、地面に開かれた足」を持っていた時代には、みな「地面とのおしゃべり」をしていたのかもしれません。

僕たちが生きる現代では、道はアスファルトできれいに「舗装」されて、足は「高機能なシューズ」によって守られています。

その「離れてしまった関係」を、「もう一度結び直す」のが、「セッション2」での目的になります。




第三図「見牛(けんぎゅう)」
"Finding the bull"



牛の姿を見る

自然の中を「足跡」を頼りに進んでいくと、そこにようやく「真の自己)」の姿を見つけることができました。

思い切って「外の世界」に飛び出したおかげで、「自分とは何か」という「問い」に対する「答えようなもの」が、朧気ながらに見えてきました。

けど、まだあくまで「(本当に求めているものの一部を)見た」だけに過ぎません。


・・(以下は、実際の「十牛図」現代語訳です)

耳をたよりに道を進んでいけば、自己の源にたどり着くことができる

耳だけでなく、身体の6つの感覚器官「眼・耳・鼻・舌・身・意」のすべては自己と一体のものであるから、日々の生活のどの場面であってもそれらによって自己を見つけることはできる

海のなかに塩が溶け込んでいるように、絵具のなかににわかが溶け込んでいるように、自己は当たり前の日々にすっかり溶け込んでいる。

だから眼を見開いてしっかりと見れば、紛れもない自己を見つけることができる。

・・

うぐいすが木の上で麗しく鳴いている。

陽光は暖かく、やさしい風が吹き抜けて岸辺の柳は青々と揺れている。

そのすべてが真実そのものであるから、それらを見逃して自己を見つけることはできない

・・


○セッション3
前後を分ける、横の空間への広がりに気づく

この第三図「見牛」の解説文の中の、「耳をたよりに」という一文が非常に興味深いなと思います。

「耳」は身体の「」に位置していて、「前後の奥行き(これは「」が得意)」というよりは、「横の空間水平方向への広がり」を感じることができます。眼を閉じて、周りの音に耳を澄ませてみると、それを感じることができるかと思います。

解剖学の「前額面(身体を前後に分ける面)」の図

セッション3」では、身体の「側面」に対してのアプローチをするのですが、「ここからは、ここからは後ろ」と、「(境界としての)横のライン」を確立していくことで、最終的には「前後を分ける、横の空間への広がりに気づく」というのが目的になります。

普段の生活を考えてみると、「過去、未来時間)」などの「前後」の感覚は意識しやすく、「過去にしてしまった失敗への後悔」や、「未来に起こるであろう予測への不安」などに、多くの人は「囚われている」のではないかと思います。

そんな時に、「」という「今ここで生まれ、消えていくもの」に意識の焦点を合わせてみると、「今、ここに在るBe Here Now)」という感覚が生じてきて、「(騒がしかった)煩悩」も落ち着いてきて、「瞑想」の状態へと入っていきやすくなります。

「瞑想」の時などに、「周りの音に集中する」ことで「聴覚優位」にしていったり、「読経」などで「声を出す」というのも、さらに、「身体の声を聞く耳を澄ます)」ようにして「内観」していくのも、「過去、未来時間に囚われている」状態から、「今、ここに留まることで、そこから空間が広がっていく」状態に導いていくための「契機入り口)」になっているのです。

まさに、「耳をたよりに道を進んでいけば、自己の源にたどり着くことができる。」ということなのです。

これは「瞑想」という形を取らなくても、ただ、豊かな緑が広がる山の中や、水平線がどこまでも遠くに続く海辺など、「自然の中に身を置く」というだけでも体験することができます。

そういう環境の中では、「眼を閉じる」ことで、周りの音に「耳を澄ます」ようになり、「雑念」は静かになってきて、「今、ここに広がる空間」を「味わう」ことができます。

自然の中で「身体の感覚を開く」ことで、周りの環境の中に、「自分の存在そのもの」を感じることができます。

「太陽が輝き、気持ちのいい光が、木々の間から木漏れ日となって、きらきらと輝いている。風がすっと自分をやさしく撫でるように通り過ぎ、さらさらと葉が擦れ合う音がする」

これを感じているのは、「自分の身体がある」からです。

外部の環境からの刺激」に対して、それが自分の「感覚器官身体)」を通して、今そこにしかなない「感覚」を生じさせます。

その「環境と自分の身体とのやり取りコミュニケーション)」の中にこそ、「自分」を見つけるのです。

セッション3の頃になると、何気ない生活の中に、ふと、自分の姿勢が崩れていることへの「違和感」であったり、感覚が開かれてくることで、「環境の微細な変化」への気づきも出てきやすくなってきます。

日々の生活のどの場面であってもそれら開かれた身体の感覚によって自己を見つけることはできる

旅を始めて、「何か」に気づき始めていきます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


序編」は、以上になります。

「序編」だけでも、かなりのボリュームと内容なので、少し「咀嚼消化する」時間が必要かもしれません。最初にも書きましたが、すぐに「理解できた」というものではありません。(もしそうであれば、「すでに悟った人」であるので)無理をせず、時間をかけながら読んでもらえとうれしいです。

身体という自然への永い旅」の「破編」は、下のリンクからご覧になってみてください。
→「モニターBさんの感想(セッション10 | 40代 女性)破編」




Yuta

( Posted at:2016年1月 7日 )