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こころとからだの平和バトン その2

「心」というのは概念というよりは装置だったようです。


すでに存在する儀礼や仕草の下に「心」をつけると、

「そのような儀礼や仕草を駆動し、基礎づけている心情」が

濾過されて抽象化される。


「心」というのは、

「外見的に・・・をしているときの心情や内面のありさま」を

概念化する装置なのです。


だから、そこらへんにあるものに「心」をつけると、

いくらでも新しい感情や思念が生まれる。


すごい発明ですね。


「記号化された世界」と「非分節的世界」の間を架橋する

「心」を発明したおかげで、人間たちの世界はずいぶん広々と

住みやすいものになりました。


でも、「心の向こう側」は相変わらず残っていて、

ときどき「こっち」に侵入してきます。


それに名前をつけるのが「文学」や「哲学」の仕事ではないか、と。
        
        (内田樹、Twitter、2014年4月3日より一部引用)




自分のこどもは、まだまだ「非分節的世界」にいます。


自分と世界はまだくっきりとは分けられておらず、

いろいろな境界が曖昧なままです。


最初は、自分と母親の存在も分かれてはいません。


母乳は、外から入ってきているのではなく、

自分の内から来るものとして認識していて、

外、他、世界というものがありません。


すべてはひとつのものなのです。


それが、様々な刺激が世界からやってきて、

それをからだの五感で捉え、電気信号に変換し、

脳に送られます。


そして、脳の中で、それが体験されます。


その体験がどんどん蓄積されていくと、パターンが現れ、

パターンのあるまとまりが、情動のようなものになります。


こどもは小さな身体で世界からの情報を受けて、

そしてそれに反応して、自分で身体を目一杯動かして、

世界に働きかけます。


働きかけると、また別の刺激を世界から受け取るので、

「受け取り」と「働きかけ」は相互作用のループの

ような構造になっています。


受け取りつづけることで現れきた情動のようなかたまりが、

働きかけのパターンを強化し、さらにまた大きなまとまりにして、

それがさらに情動の境界をはっきりさせていくというやりとりが、

ずっとつづいていきます。


そうやって、つかむ、おすわり、立つなどの運動のパターンが、

目に見えるようになってきて、

情動よりもはっきりとした感情のようなものも現れてきます。




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では、こどもには最初から、心があるのでしょうか。


僕は、最初からはっきりした心というまとまりは存在せず、

上に書いたような受け取りと働きかけのループを繰り返し、

少しずつパターンが出てくると、そこに心が生じ始めると、

考えています。


心のベースとなるものはあったとは思いますが、

それにはまだまとまりがなく、曖昧なもので、

それが世界との関わり合いから生じる経験を積み重ねていき、

まとまったものになっていく。


では、心とは何かというと、

なんとも言えない未分化な「情動」があって、

それがあるまとまりを持った「感情」になっていき、

さらに、世界のたくさんの情報の中から、

自分を維持するために有益なものを、

効率的に選別するための「意識」が生まれてくる。


その全体のはたらきが「心」なのかなと考えています。




いのちは、外と内とを膜で区別して、それを維持しようとして、

必要なものは内に取り込み、不要なものは外に排出します。


基本的には、そのルールに従っていると思います。


最初は、自分を維持するためだけに行っていた行為が、

だんだん効率良くなり、その行為による体験の蓄積が

感情を芽生えさせ、さらに維持することを強化します。


さらなる効率化のためには、

ランダムに入ってきていた刺激、情報を取捨選択して、

より自分を維持できるリソースに、自分の能力を集中させます。


そのときに必要なのが、意識というはたらきなのかなと思います。


ジュースの入ったコップをつかみ、それを口に持っていき、

脳がとても喜ぶ「甘い」という体験をしたとすると、

それをさらに効率よく、その体験を重ねようとします。


そうやってこどもは、おもちゃ置き場に向かうのではなく、

自分の意識で、台所の方に向かうようになります。




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そこで、心は個人の中に「生じてくる」ものだと考えると、

それが集まった社会でも、同じようなことが起きるのでは

ないかと考えられます。


自分個人を維持するために、なんとなく人間がまとまって

生活をし始めました。


分担して狩りをしたり、子育てをしたりします。


その集団を維持するために、いろいろな道具や、儀礼が生じてきます。


さらにそれを効率的にすすめようと思うと、

さらに細やかな道具が必要になり、

その過程の中で「集団としての心」も発明された。


それが漢字としての「心」となり、それを使うことにより、

もっと複雑な感情を生み出せるようになってきた。


そうして集団は、複雑な社会になり、人間も複雑になっていった。


人間の心が生まれ、そして集団としての心が生まれたのか、

それも相互に作用しながら、同じくらいのときに生まれてきたのかは、

今の僕には分かりません。


いずれにしても、心は生じてきたものだと思います。


自然に生じてきた心により、人間の感情はさらに複雑になり、

意識も多様になっていきます。


人間の住む世界は広がり、ずいぶん住みやすくなりました。


でも、人間の住む世界が、この世界のすべてでしょうか。


僕は、内田先生も言っているとおりに、

「心の向こう側」は相変わらず残されていて、

それはとても広大なような気がします。


先に、「心のベースのようなもの」があって、

そこから心が生じていくと書きましたが、

心はそのベースをすべて掬いきっているかと言うと、

ほんの一部分だけなような気がします。




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ロルフィングは、人間に関わるものすべてを扱います。

そうすると、心の問題にも向き合うことになります。


基本的に身体の構造はシンプルです。

解剖学の教科書は、これから先もさほど変化はないと思います。


でも、そこから生じてくる心は広く、

さらにその向こう側まで含めると、それはまるで宇宙のようです。


僕がロルフィングをつづけているのは、

宇宙飛行士が、宇宙の神秘を追い求めているように、

身体から生じる、この心の宇宙の広がりに惹かれているからでしょう。


宇宙の研究は進んでいて、分かることがどんどん増えています。


でも、分かる範囲がクリアになればなるほど、

その広がりのスケールには、圧倒されてしまうと思います。


心の研究も然りで、世界中の心の研究、書籍を全部集めても、

それが心より大きくなることはないでしょう。




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このブログで、心をきちんと捉えようと試みたのですが、

案の定、その広がりに圧倒されてしまいました。


でも、その宇宙の広がりがどこまであっても、

宇宙のことをすべて知ることができないとしても、

僕たちは、夜空に広がる星を眺めて感動することができます。


明日も僕は、ロルフィングをすることで、

人間の身体から広がる心に触れ、それを眺めます。


その素朴な神秘さに驚き、感動する心は、

いつまでも僕の中にあってほしいと願います。




Yuta

( Posted at:2015年7月 1日 )