ロルフィングハウス フェスタ FESTA

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かたく閉じられた手、かたく編み込まれた思い。

自分のこどものことを眺めていたら、

手と口について考えていました。

ヨガの先生のDavidが、

ボディマインドセンタリングの考えでは、

「こどもは内臓の動き、感覚に従う」

「内蔵の動きが、脊柱の動きをつくっていく」

と教えてくれたことがあります。

こどもは、何か動くときに、

意志があって、それから動いているのではなく、

環境から入ってくる刺激に対して、

すごく単純なルールの反応を繰り返しています。

こどもは生後3日ほどすると、

母親の乳首のにおいを嗅ぎ分けて、

そこに口を運びます。

「おなかが空いたから、お母さんのお乳を吸おう」

などという意志はありません。

ただただ自動的に反応しています。

その乳首の触覚刺激により、母親の母乳づくりは促進され、

少しずつ適切な量の母乳が出てくるようになります。

さらに、他人の信頼に関わるホルモンの「オキシトシン」は、

この肌の接触刺激によって分泌が促進されます。

つまり、こどもは意志もなく、自動的に乳首に口を運び、

それに吸い付き、母乳を自分の体内へと入れます。

そのこどもの自動的なはたらきをきっかけにして、

母乳が今のその子に必要な分つくられるようになり、

母親は腕の中の自分のこどもを信頼して、

その子を守って育てていこうと思うようになります。

こどもが、わたしを母親にしていってくれているのです。

けど、そんな意志はこどもにはありません。

ただ単純な反応を繰り返しているだけです。

生まれたばかりのこどもは、母親とは分かれていません。

こどもが母乳を飲むということは、

他者である母親から母乳が流れこむのではなく、

自分の中で起きるできごとなのです。

もっと正確に言うと、

その頃は「自分」という存在はなく、

世界も存在していません。

自分も世界も何も分けられていなくて、

あいまいにゆらいでいるだけです。

そこから、はじめての他者としての「母親」、

何かをして、同時に何かを受ける「自分」との

分離がはじまります。

母乳を自動反応でからだの中に入れ、

それが管を通って、自分に必要なものは留め、

不必要なものはこう門から排泄します。

ただ口の中から入り、管を通り、おしりから出ていきます。

その一連の内臓の管の動きに、こどもは従います。

うんちをする直前などは、腸のぜん動運動に従い、

全身をくねくねと動かします。

(こどもの動きには、こういった予兆が見られます。)

そうやって、一本の管に入っては出ての流れを繰り返し、

それに伴ったくねくね、うねうねした動きをし続けるこどもは、

まるで海の中の原始的な生物のようです。

水の中は浮力があるので、空気中にいるよりも

重力の影響を受けにくいのですが、

ぼくらは魚たちとは違って、

重力の影響を受けながら生活しています。

なので、自分のからだを内臓の動きに合わせて動かしていると、

からだを支える骨格、とくに脊柱に刺激が入ります。

そうやって少しずつ魚たちが、陸に上がっていったように、

からだを支える骨格がしっかりとしてきます。

重力にからだが適応していっているのです。

今のぼくのこどもは、ちょうど魚のようです。

こどもも魚も、動きのはじまりは、口です。

世界と最初に出会う場所、世界を感覚するところは、

手ではなく口です。

手(足も含みますが)は、内臓の動きに反応して、

背骨がくねくね動いたときに、たまたまそれに付随して動きます。

でんでん太鼓のひものようです。

なので、手の動きはとにかくランダムです。

顔にできものができてかゆくても、

手を使って器用に掻くことはできません。

たまたまランダムに手が動いていて、

自分の顔のあたりに当たると、それを不器用に動かし、

掻いている「ように」動かします。

たまたま手が口元に行くと、母親の乳首だと思いしゃぶります。

しかし、舌への母乳の刺激がないので、

それは「求めているものではない」と判断して、

すぐにしゃぶるのをやめます。

今は、口から世界をむかえにいって、

そこで出会ったものをしゃぶり、

母乳が出るとそれを継続し、出なければそれをやめます。

とても単純なルールの反応です。

そうやって、他者、自分、世界がゆるやかに分離していきます。

手がランダムに動き、自分のからだを叩いて痛かったり、

掻いたら気持ちよかったり、しゃぶったら何も出てこなかったり、

とにかくたくさんの環境との関わりの中で、

様々なフィードバックをもらいながら、

自分のからだの輪郭がわかってきます。

自分と自分ではないものの「境界」がはっきりしてきます。

自分のからだのアウトラインが縁取られていき、

「自分という感覚」が立ち上がってくるのです。

何も分離していなかったところから、

自分というかたちが浮かび上がってきます。

それに伴って、「意志」も芽生えるようになってきます。

「自分」という認識と、「意志」は同じ頃に現れてきます。

意志が芽生えると、意志と関連する「手」が自由に動き、

手で口にものを運び、それをしゃぶります。

口に入れる動きが「洗練」されていきます。

なぜ「意志」と「手」が関連するかというと、

動きは口からはじまりますが、

口は、自分のこと全てをしゃぶることはできません。

腕を口でなめることは可能でしょうが、

足は難しいですし、顔、背中となると不可能です。

眼、耳、鼻は、口に何かを入れるための補助です。

手もその補助なのですが、手は空間を移動できます。

動き回って、自分をなでます。

「なでた自分」と、「なでられた皮膚感覚」が一致して、

自分のからだの輪郭がなぞられたことによって、

そこに自分が現れてきます。

先に書きましたが、意志は自分がなければありません。

そうでなければ、ただ反応しているだけです。

意志には自分が必要で、

自分を感じるためには手が必要です。

そういうことで、意志と手は関連しています。

口に何かを入れるために、手は使われはじめますが、

それが今度は視覚と結ぶついていきます。

眼でとらえた視覚情報と、口の中でしゃぶった皮膚感覚を対応させ、

「かたち」を学んでいきます。

実際に、脳の中では、視覚と触覚は相補的な関係になっています。

どうしても僕らは、手が重要だと信じていて、

すぐに手に頼ってしまいます。

スポーツ初心者の、手の力の入れ具合、

手だけに頼りきったからだの動きを見ると、

それはわかりやすいと思います。

それは「〇〇したい」という意志が強く出すぎて、

(例えば、「バットでボールを遠くに打ち返したい」など)

それとつながっている手が主役になってしまいます。

漫画家の井上雄彦さんのバガボンドの最新巻に、

「手がないものと思って剣を振る」というシーンが出てきます。

意志が出すぎると、動きは読まれやすくなり、

からだの動きもかたくなります。

手と意志はつながっているので、

それを忘れて動きなさい、と。

今、眺めている自分のこどもは、

意志を伴った手の動きはほとんどありません。

最近ようやく、「にぎる」ことをよくします。

自分の姿勢、もっと言うと自分という存在を、

安定、保持するためににぎりはじめています。

そのうちに、もっと手が主役になって、

意志ができあがってくるんだと思います。

ぼくの手を眺めてみると、なんだかがちがちになっていました。

きっと考えすぎて、意志、意味、意図で

がんじがらめになっているんでしょう。

気が付くとぼくらは、手を使いすぎてしまいます。

それには、「〇〇してあげたい」とか、

「必ず〇〇しなくてはいけない」など、

意志が込められているからしょうがないのですが、

手をかたくかたく、そしてあたまをかたくかたく、

そしてからだもかたくかたくしています。

たまには自分の手をじっくりと眺めてみると、

かたくしている自分を見つけられるかと思います。

もっと自分のこどものように、意志に縛られず、

やわらかな手で、ロルフィングできたらいいなと思いました。




Yuta

( Posted at:2014年8月23日 )