もう一度、語ってみる。

僕らは常に、「語りなおし」のプロセスの中にいる。


この世界をどんな風に語れるのか。


一人でいるときに、ふと浮かんでくるときもあれば、

散歩している途中に、何気ない景色をきっかけとしたり、

親しい友人との他愛もない会話の中に見つけたり、

それはいつ訪れるかわからない。


自分自身をどう語るのか。


僕は野球をしていて、大学でも野球を続けるつもりだった。

でもそれが叶うことはなく、「この肘の痛みさえなければ」と、

何度も何度も考えた。


それから僕の人生の大半の興味は、からだに関わることになっていく。


解剖を勉強して、肘の痛みがどんな状況だったか知ることになり、

トレーニングの情報を集め、肘だけの原因ではないことがわかり、

ヨガを始めることで、からだ全体の扱い方にも興味が出てきて、

ロルフィングのタッチの力に出会うことになる。


肘の痛みを入り口に、それを語りなおし、語りなおしていく。


大きな問題に絡め取られ、もうどこが始まりだったかも忘れ、

わかってきて全てが見通せそうになると、ほころびが見つかり、

そのほころびから全体が崩れ、動かないものになっていく。


からだって何だろう。

癒えるって何だろう。


語りはまた別の語りを引き寄せ、永遠に続いていく。


人は長く生きていく中で、様々に傷つけられていく。

その都度、痛みに苦しみ、いつまでも塞がらない傷を見つめ、

塞がったかと思うと、疼いて眠れなかったりもする。


ロルフィングを受けに来てくれる人たちも、様々な傷を持っている。


今、把握できているものもあれば、忘れたと思っていたものも、

見えないようにそっとしまってしていたものもある。


その傷に対する語りが、語りなおしの可能性に開かれていなくて、

変化の流動性を失い、プロセスが止むと、人は病んでいく。


それを、時間をかけながらロルフィングの時間の中で、

もう一度語りを開き、あらたにその傷を、自分を、

そして世界を語りなおしていく。


痛みと共にやってきた傷が、自分自身を書き換えていく。


誰でも人は傷つくものだし、だからこそ自分や世界は、

語りなおされ、まだ見ぬものになっていく。


まだ見ぬものがあるのなら、それはこの先歩き続ける理由には

十分ではないかと思う。




Yuta

( Posted at:2014年3月 2日 )

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