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モニターCさんの感想(セッション7 | 40代 女性)

モニターCさんのセッション7です。

感想の中にもありますが、10シリーズも終盤に差し掛かり、「早くエンディングを迎えたいような、このままずっと続いてほしいような」気持ちが、Cさんに出てきたようです。

ロルフィングを「する側」の僕もそれは同じで、「終わるのがもったいないな」と感じることがあります。

でも、ロルフィングは「10回」という回数を決めて、「終わること(閉じること)」を設定してあります。そして、時間という「プロセス」をかけながら、「10シリーズという物語」を通り抜けるようなものでもあります。

映画でも、小説でも、演劇でも、「ある物語を通過する」と、その「前後」では、何か世界の見え方が違っていたり、重さの感覚が変わってしまって、妙に自分が軽く感じたり、時間が伸び縮みしたりします。

それは、自分に「変容」が起こったからです。

「良い物語」にはそんな力があります。

今までいろいろな方々に10シリーズをさせてもらいましたが、それぞれに全部違っていて、「10シリーズの前後」では、「違った人間に生まれ変わった」ように感じる方もいました。

受けていただく方にとって、「10シリーズという経験」が、「より自然な自分(身体)」への「変容の機会」になることができれば、ロルファーとしてとても幸せです。

それでは、Cさんのセッション7の感想を見てみましょう。

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7回目
衝撃の‼首と頭の解放

ロルフィングの10シリーズも今回終わるとあと3回
なんだかとてもさみしい感じ
早く10シリーズ終えての自分の変化もみてみたい‼との気持ちも大きいのですが今までの1回1回の密なセッションやその後の変化を思い返すとずっと続いて欲しいようなそんな気持ちです
最近よく全身の映る鏡をみます
以前はフォームのチェックが主だったのですが最近は自然に姿勢のチェックをしています
そして『今日も大丈夫』と満足しています

そんななか迎えた7回目
実は噂には耳にしていたのです
『でも...まさか?ないでしょ』と思ってましたがそのまさかでした
でも不思議と素直に受け入れ(笑)結果的にはスッキリ!!です
口に関しては20年も前から顎関節症です
スムーズに開かない日もあります
それは事前に大友さんに伝えたのですが右側から始めて左に移ると直ぐに『左側何かしましたか?』と聞かれたのです
別に関係ないかな、と思って事前に話さなかったのですが左に手強い親知らずが生えてて今は痛みはないもののたまに動いているらしくしかも複雑な生えかたをしているために抜くのも大変で経過観察中なのです
口を大きく開いたわけでもないので大友さんもそれに気づくなんてすごいナァって改めて思いました
体の反応って不思議ですね
その日親知らずが少し疼きましたが翌日には治りました

それとセッション中に顔のマスクを外すというイメージが浮かび千と千尋の神隠しのカオナシのような感じのイメージ
不思議でしたが大友さんに聞くと今回のセッションにはそういう意味もある事を聞いて納得でした

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手が集まって、それで「身体の言いたかったこと」がわかる

ロルフィングは、身体と「会話」をするようなもので、いろいろと「質問」をすると、その時に身体の「感じていること」や、「してほしいこと」が、少しずつ見えてくるようになります。(そして、そのことによって「自然治癒力」が適切に働いてくれるようになることを、Eさんのセッション6の時に書かせてもらいました。)

ロルフィングの認定トレーニングを終えてから5年が経ちましたが、「言葉を話さない」身体とのコミュニケーションは、まだ「流暢」というレベルには至っていないと思っています。いろいろと試行錯誤をしながら、語学の単語や文法を学ぶように、身体の「仕組み(具体的には、解剖学や生理学など)」について理解していっています。

そうやって身体と会話していくと、なんとなく会話の「流れていく方向」というのがあって、それに従って進むと、思いもかけないことが起こることがあります。

痛みがある場所とは違うところに、なぜか「手が集まる」ことがあったり、何も聞いていないのに、古傷がある場所や、最近痛みや違和感があって気になっていたところに「手が導かれる」ことがあって、そこに手を置いていると、身体が反応を始めて、驚くような大きな変化を見せてくれます。

自分で何かを起こそうと意識しているわけではないのですが、その瞬間瞬間の流れに乗っていくことができると、「気づいた頃」には、「身体の言わんとしていること(してほしいこと)」が見えてきて、そこに手が集まっています。

「なんでそこがわかったんですか?」と聞かれることもありますが、「なぜかはわかりません。ただ身体がそこに導いてくれたような気がします。」というのが、正直な僕の気持ちです。

セッション7では、口腔(口の中)と鼻腔(鼻の中)にもアプローチをして、頭蓋骨の構造のバランスを取っていくのですが、今回、Cさんの口の中にワークをしている時に、自然に導かれるように進んでいくと、「手強い親知らず」に辿り着きました。

このように、身体に触れて、身体が導いてくれるのに従うようにロルフィングをしていると、自然に身体が反応してくれて、「あるべき最適な場所(状態)」に収まっていってくれます。勝手に身体の各組織が動き出し、それぞれにとって一番居心地の良い状態に落ち着くのです。(こういった反応を、「身体の自己組織化」と呼びます。)

「こちらが考える正しい場所(状態)」に、こちらの力を使って「矯正」するわけではありません。「身体自らが望んだ場所(状態)」に、「自らで変化(変容)」していくのは、「自然の智慧」というか、「生命の神秘」というか、そういったものを「目撃(観察)」しているような感じで、いつもそれが起こる度に、不思議に思うと同時に感動します。

そういった経験を重ねていくと、その何度も観察した「自然で最適な状態」の感覚が、自分の「手の中に蓄積され、記憶される」ようになって、なんとなく触れただけでも、「ん、何か不自然だ」とすぐにわかるようになってきました。身体が「自然で最適な状態」を教えてくれたことで、逆に「違和感」であったり、「不自然」の感覚に、自分の身体がすぐに反応するのです。

「左側何かありましたか?」と、口の中を触っている時に聞いてみたのは、そういった「違和感」を感じたからです。

こういったことは頻繁にあって、そう聞かれたクライアントさんが、「実は...」と思い当たる節がある場合もありますし、「いや、特に何も...」と、何をこの人は突然そんなことを聞くのだろうと不思議そうな顔をされることもあります。

僕個人としてはまだ経験はないのですが、身体を触れている時に「違和感」を感じて、クライアントさんに聞いてみると、特に思い当たる節はなかったのですが、「一応、病院で検査をしてきてもらえませんか?」とお願いをしてみた結果、「病気(または腫瘍)」が見つかったケースがあると、知り合いのロルファーさんから聞いたことがあります。

そんなことを聞いたり、先に書いたように、無理な力は加えていないのに、自然に手が集まるところに触れているだけで、身体が適切な場所に自ら変化していくのを目の当たりにすると、人間の「直感」の力のすごさに驚かされます。(正確には、「自分の直感」というよりも、「何か大きな存在(自然、宇宙の摂理、ブループリント、内なる智慧など、いろいろな言い方があります)」に導かれているようにも感じます。)

少し話は違うかもしれませんが、ロルフィングを学ぶクラスのデモの時に、先生が「あなたは以前誰かにロルフィングを受けたことはある?」とモデルクライアントに聞いて、それに対して、昔受けたことがあって、それが誰なのかも教えてくれました。そうすると、「なるほど、だから身体にとても秩序があるのね。でも以前、鎖骨下筋へのワークは残していたようね。」と、先生が言ったことがありました。

ここですごい点は2つあって、まずは「以前にロルフィングを受けた身体なのかどうかが、触れた感触でわかった」ということと、それを踏まえた上で、「そのロルファーが残しておいた仕事が、触れることでわかった」という点です。

ロルフィングを受けた身体は、身体自らが「自己調整、自己組織、自己統合」する働きがあって、それによって身体の「構造」にも、「中身を構成するもの」にも「秩序」があります。逆に「ロルフィングを受けていない身体(ランダムな身体)」だったり、「何か問題がある身体」だと、それを感じることはできません。

そこまでならなんとかわかりそうな気もしますが、そこから「残しておいた仕事」までを捉えるには、まだまだ僕には時間がかかりそうだなと感じています。

ロルフィングのそういった「繊細で、洗練された技術」というのは、とても「シンプル」でありながらも、「パワフル」な変化を引き出すことができます。

そして、それを習得するのは「簡単ではない」のですが、きちんとした訓練を受けると「学び、修める」ことができるものです。

それを僕の尊敬するロルファーのエドワード・モーピン(Edward Maupin)さんは、下のような文章で表現しています。

"It is simple, but it is not easy.  It can be learned."
(それはシンプルだが、簡単ではない。そしてそれは学ぶことができる。)
- Edward Maupin

これは多くの「職人」と呼ばれるような職業の人たちに当てはまることだと思いますが、ロルファーとして、これからも真摯に身体に向き合って、そこからたくさんのことを学んでいこうと思います。


「マスクを外す」ということ

「20歳の顔は自然から授かったもの。
 30歳の顔は自分の生き様。
 だけど50歳の顔には、あなたの価値がにじみ出る。」
 - ココ・シャネル

どきっとする言葉だなと思います。30歳を超えた僕は、「自分の生き様」が、どう顔に出ているのでしょうか。そして他の人には、どう写っているのでしょうか。

自分の顔というのは、一度も「自分で見ること」はできません。それでいて、そこには否が応でも「その人らしさ」が、「表現」され続けているのです。

「私は今、こんなことを考えています」であったり、「私はこんな人間です」と、顔を持っている時点で、それを他人に「晒し続けている」ことになります。

それほどまでに、顔はその人を「形づくる」ものでもあるので、顔を褒められるとうれしく、それを否定されると、「自分の人格(または存在)」までも否定されたような気持ちにもなってしまいます。

そんな「顔」という存在は、人間と動物では「機能」が違っていて、その違いが「人間らしさ」にもつながっています。そのことを、人間の進化の歴史を振り返りながら、説明していこうと思います。

人間の先祖は、ある時点から「生存すること」よりも、「コミュニケーションをすること」を優先するようになりました。それは「自然淘汰」から、「性淘汰」に変わっていったということになります。

「集団」になり、「共同体」を形成していくことで、生まれたばかりの子どもや、病気や怪我をした者、障害を持つ者、高齢者などの「(社会的)弱者」を、みんなで支えていくことが可能になり、「生存率」や「種の多様さ」が格段に増えました。

さらに集団での「狩猟」や「農業」をすることで、「安定した食料の確保」にもつながり、「生きること」をそんなに個人でがんばらなくても大丈夫になっていきました。

生きることの「余裕」が出てきた先祖たちは、「狩猟の際の合図」や、「危険な状態を知らせる」といった時に使用していた「鳴き声」を、集団内での「コミュニケーション」に「転用」していくようになります。

それはどんどん「複雑」になっていき、それが「音声のパターン」として認識できるように「分化」されてきて、それによって「言葉」が生まれていきます。

その時期から、「脳の容量」は爆発的に大きくなっていくことになります。

進化というのは、「小さくコンパクト」になっていくのが通常ですが、それよりも「コミュニケーションを楽しむこと」を優先することで、それを司る脳のエリアが「大きく複雑」になっていったのです。

これは人間と動物の「眼」の違いにもつながっていて、動物の眼の多くは「黒目の部分が大きく」、それによって「どこを見ているのか(視線の向き)」が、他からわかりにくくなっています。そのおかげで「相手に自分の考えていることを読まれるリスクが少なくなり、捕まえられにくくなる」のです。つまり「生存に有利」ということです。

しかし、人間の眼は「白目の部分が大きく」しているせいで、「考え、意図が読まれやすい」のです。

他の動物は、「生きること」が最優先事項なのですが、人間は「社会」を作ることで、食べるものに困らず、寒さをしのぐことができて、病気もケアされるようになり、自分が「捕食される立場になる」ということを、そんなに想定する必要がなくなりました。それで「おしゃべりを楽しむ余裕」が生まれてきて、そのために自分の「眼」を、「自分の考え、思い、意図を伝えやすい」ように変えてしまったのです。

「眼の動きのわかりやすさ」もそうですが、「表情の豊かさ」も人間の特徴で、「自分の考えていることや感情」を、表情で伝えることもできます。

「顔と感情」というのは、深く結びついていて、「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」という言葉で表されるように、「感情は、表情(顔の形、動き)に続く」というのが、研究でわかってきました。

人間の先祖たちは、目の前に相手がいて、「お互いの表情を真似っこ」していると、それがただただ「楽しかった」のでしょう。それが「コミュニケーションの原始的な形」になりました。ただ顔見つめ合って、それを向こうが動かすと、自分も「つられて」動いてしまうという「遊びのようなもの」をしていました。

そして、相手がする表情には「パターン」があり、それと「感情」が結びついているように「錯覚」し始めるようになり、不確定な相手を「推論」するようにもなっていきます。(これにはミラーニューロンの登場も関係があると思います。)

ただの楽しさのための「真似っこの反復の蓄積」が、ある「かさ」に達することで、「感情のようなもの」が生まれてくるのですが、それが「自分に存在すること」よりも、まずは「相手に存在すること」を「錯覚」することによって、それが「不確定な振る舞いをする」相手を「想像(予測)」することにもつながっていきます。

それからしばらくしてから、「自分も不確定である」ことに気づき、「自分も他者(相手)であるように想像」するようになり、それが「自己意識(自我)」を生んでいくことになります。

先祖たちがしていたプロセスと同じように、生まれたばかりの赤ちゃんも、最初から「心」であったり、「感情」があるわけではありません。「情動」という感情ほど「分化」していないものがあって、目の前に幸せそうに微笑んでいる「母」を見て、その表情を「自動的に真似っこ」して、それを繰り返しているうちに、「情動が感情に分化される」ことが起きてきて、いろいろな感情を「学んでいく」のだろうと思います。(言葉も、最初は「未分化な鳴き声」のようなもので、それを「真似っこ」しているうちに、それが分化され、「複雑な言葉」を学んでいきます。)

何度も何度も「他人とのコミュニケーションという遊び」を重ねていくと、最初は「つられて反応」していた表情は、次第にある「パターン」を取るようになり、それがもっと「固定化」されていくと、その人の「感情」を作り上げていきます。それがさらに繰り返されると、「性格」にまでなっていきます。「膨大な表情の反応の蓄積」が、「その人固有の感情や、考え方」を作り出していき、そのパターンが「その人らしさ(マスク)」にもなっていきます。

自分の表情は、他人の顔や外の世界に向けて、生まれてから今まで「反応」し続けていて、それが様々な「感情」を生み出していって、知らず知らずに「自分のマスク」を作り出しています。そして、自分では気づていることは少ないのですが、いつもその「マスク越し」に世界を見て、生活しているのです。

「マスクは似たようなマスクを引き寄せる」という特徴があって、「何だかみんな不満そうな顔をしていて、愚痴しか言わない」という世界が目の前にあったとすると、そういう「マスク」を自分でこしらえてきて、それに似たマスクが寄ってきているということに、「自覚的」である人はほとんどいません。

そういった「固定された表情(マスク)」があり、それによって「パターン化された感情(性格)」が「反射的に」生まれ続けていて、「マスクが望んだ世界、他人」を見ているという状況を、「一旦、マスクを外して、この世界をありありと見てみる」というのが、このセッション7の一つのゴールとも言えます。

マスクを外して、まるで「生まれたばかりの赤ちゃん」のように、新鮮な世界を味わってみます。そうすると、「パターン化された感情(性格)」も、自分で「限定的に見ていた世界」にも、「変容の機会」を与えられて、「再調整、再組織、再統合」されていきます。

このセッション7の後に、自分の考え方や感じ方も変わり、自分の周りの環境に影響が出てくる人(仕事、パートナー、住む場所などが変わる人)が出てくるのは、「固定された表情(マスク)」が変化することによることだとも考えることができます。

先に紹介したココ・シャネルさんの言葉がありますが、「自分の顔が変わること」によって、「自分の生き様」や「自分の価値」が変わることがあるという解釈もできるのではないかなと、僕の今までの経験では感じます。

「顔以外の構造」を今までのセッション1〜6で整えてきましたが、それによってでも、考えや、感じ方、感情のパターンが変わる人もいますが、そういったものが「もっと変化できる可能性」を、「今までの人生で作り上げてきたマスクが制限している」ということもありえます。

セッション7で、その制限が外れることによって、その人の内面的なことや、周りの環境が「さらに変化する可能性を得る」ことにもなります。

その可能性を得ることで、さらにCさんがどんな風に変わってくるのか、残りの「統合のセッション」で見守っていきたいと思います。




Yuta

( Posted at:2017年5月25日 )