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モニターEさんの感想(セッション2 | 30代 女性)

元々ダンスをしていらっしゃったEさんの2回目です。

以下がEさんの感想になります。

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2回目は脚・足がテーマということで、脚・足に問題が多いと感じているだけに楽しみにしていました。

始め、特に固まっていた背中に手を当てて頂いたのですが、前回は「何してるんだろう?」というだけだったのに対し、今回は身体が反応しているのが感じられ、わくわくしました。

脚・足を調べて頂くと、左右全く違うクセがあって驚きました。これでよく踊っていたものです。

まずは右脚・足。しばらくすると指がぬーっと伸びていく感覚がありました。さらに脛やふくらはぎに触れられると、膝の中や内腿の中が動いている感覚が。筋肉が動いているのとは違う感覚で面白い。そのうち腰や脇腹がぬーっと伸びる感じがあって、何だか右側全体が長くなった気がしました。実際立ってみると左との差がはっきり分かりました。顔までリフトアップした気が(笑)。

次に左側。言われた通り右側とはキャラが違って、最初は反応が鈍かったのですが、動き出したら早かった!脚がぐーっと伸びて、腰、上半身も一気弛んで伸びて楽に。

立ってみると、今までにない重さを感じました。嫌な重さではなく、身体の中心軸だけにまっすぐ重力がかかっている感じなので、むしろ楽だし安定感があります。中心軸以外は開放されてとても軽い。今まではあちこちバラバラに重力がかかっていたことを実感しました。

立ったり歩いたりした時、特に右足の地面に接している所が今までと違うので不思議な感じがしますが、楽しみながら慣れていきたいと思います。

ここのところあれこれ考え過ぎていたのが、身体が弛んだらなんだかどうでも良くなり(笑)、精神的な効果も実感しました。これから気持ちや考え方の変化も観察していこうと思います。

次回もよろしくお願いします。

追記

ロルフィングって何?と聞かれると説明できないでいましたが、「よけいなことをしない身体になるメソッド」かなーと思います。今、精神的にも生き方も持ち物もそういう方向でいきたいと思っているので、今受けることができて良かったです。

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キャラの違う、右側と左側

Eさんの感想の中にありますが、同じその人の身体の中でも、右側と左側の「キャラが違う」ことがあります。(同じように、上側と下側のキャラが全く違う人もいます。)

ヨガやアーユルヴェーダなどでは、身体の右側が「男性性」で、左側が「女性性」を表しているということを、聞いたことがある方もいるかもしれません。少し調べてみると、西洋と東洋では左右が逆になっていたり、同じ東洋の中でも時代でそれが逆転することがあったりするようです。僕自身は、どっちがどっちというのは、そんなに重要視していません。

普段の生活で考えてみると、性別が男性でも、すごく女性的な人もいますし、最近は「LGBT」の問題などが、日本でも取り上げられるようになってきました。要は、単純な性別の話ではなくて、それが複雑に入り組んでいることがあるということです。僕はどんな方がいてもいいと思いますし、いかにも男性らしい男性でも、女性性は皆無ではないと思っています。(陰陽図にはそれが示されていますね。)

ということで、身体の右側と左側にアプローチする際に、同じようなことをしていても、まったく反応が違うということがよくあります。(同じ話をしていたとしても、聞く人が違うと、リアクションが違ってくるのと同じです。)

右側は「おしゃべりでいろいろと話してくれるけど、肝心の深いところにはなかなか入っていかない」というキャラクターを持っていて、左側は「無口であまり口を開かないけれど、その少ない言葉の中には、かなり心の深い領域が反映されている」という場合もあります。

今回のEさんだと、右側がどんどん反応していってくれて、触れているのは足だけでしたが、身体の中身から変化していってくれました。僕自身も「これは大分、股関節、脚が伸びて、スペースが広がっていくな」と感じていたら、Eさんも「脚が伸びていってる感じがあります」と伝えてくれました。最終的には、右の顔までリフトアップされていました。笑 でも、反対の左側は最初は口数が少ない感じで、なかなかこちらのタッチに反応してくれませんでしたが、反応し始めると一気に変化していくのがおもしろかったです。同じ人でも、なかなか違うのがおもしろいです。

ロルファーの僕が、身体のどの部分を、どんな感じで触るかも大切ですが、それは触れている身体が「どんな反応をするか」によって決めています。こちらが身体の「キャラをつかむ」のがうまければ、その分スムーズに反応が進んでいってくれると思います。

身体のキャラが違う感覚は、10シリーズの序盤の、まだ身体が整っていない時に感じられやすいのかなと思います。どんどんセッションを重ねていくと、それがだんだん薄くなってくる感じがあります。

もしもロルフィングを受けることがあったら、そういった右側と左側の反応の違いと感じてもらうのもおもしろいかもしれません。



大人な「あたま」と、こどもな「からだ」

Eさんの感想を全体的に見てみると、もうすでに身体の反応を「眺める」感覚が出てきていて、身体のコントロールを「明け渡す」ことができているかなと思います。さすがダンスを長いことされてきて、いろいろなボディワークを受けてこられた方だなという感じです。

僕の好きな神戸のヨガの先生がブログを書いていて、その中に「瞑想と犬」というタイトルのものがあります。「心」というとらえどころのない性質を、「犬」に例えた内容です。ぜひそちらもご覧になってください。

簡単に説明すると、心はあちらこちらに自由に動き回り、落ち着きがありません。そうかと思うとピタッと止まって、吠えたり、すやすやと眠ってしまったり、まるで気ままな犬のようだということです。瞑想などをしたことがある人は、「そうそう。笑」と共感してもらえると思います。

心というのを、「コントロールできるもの」と捉え、あっちに行ったり、こっちに行ったりするのを、「ダメでしょ」と叱りつけても、心はますます自由気ままに動き回ってしまいます。それはコントロールできる、思ったようにできるという、最初の前提を見直さなければいけないのかもしれません。

これは身体も同じで、「大人なあたま、こどもなからだ」という話を僕はよくします。

身体は気の向くままに、お腹が空いて、眠くなり、じっとしていなければいけないと苦しくなり、まるで「こども」のように活動するのが自然です。今どこにいて、誰が目の前にいて、時計の針がどこを指していようが、そんなことは身体というこどもには関係ありません。

それを、「人前でお腹が鳴るのは恥ずかしいから、お腹をぐっと締め付けよう」とか、「眠いけれど仕事だから、エネルギードリンクでも飲んで乗り切ろう」とか、「大事な会議中だから、姿勢をぴんとしておこう」などと、身体の自然に起こってくる反応を「頭という大人」が、しっかりとコントロールしようとします。

そうやって大人が意のまま(これは「大人にとって」都合の良いことが基本です。「こどもにとって」ではありません。そして多くの大人は、それに無自覚であるということも忘れてはいけません。)にこどもをコントロールしようとすると、こどもは大人の機嫌を取るために行動するようになり、自分の欲求を「我慢する」ことを覚えていき、それをずっと続けていくと、いずれこどもの自由な反応は「萎縮」するか、歪んだ形を取って「発散」されます。

自然に出てくる反応が押さえつけられると、まずは萎縮する前に、その反応が何か別の形に変わり、発散、表現されようとしますが、発散するエネルギーが外に向かう場合と、内に向かう場合とがあります。外に向かうと、他者に対して支配的だったり、破壊的になることがあります。それが内に向かうと、自分の皮膚、内臓などに症状が出てきて、自分自身の身体を「いじめる」ようになります。

頭の過剰なコントロール欲によって、身体の自然な反応が萎縮してしまった場合には、身体は生き生きとエネルギーに満ち溢れ、自分の自由な感覚に従ってしなやかに動き回り、環境や他者との活発で豊かなコミュニケーションを取ることが、できなくなってしまいます。身体自体に生命力を感じず、動きは硬く、ぎこちなくなり、自分の世界に閉じこもるようになります。


「自分を支配する」から、「自分を明け渡す」へ

あるスポーツメーカーのキャッチコピーが「自分を支配する」というのがありました。

こういったキャッチコピーは、「その時代の空気を映す」ものだと思いますが、まさに現代は、「過保護で教育熱心な大人(頭、思考が身体を支配する)」の時代だなと、そのポスターを見て感じました。

人間には意思の力があります。そして、その意思の力で、今までの動物では成し得なかったことを達成しています。それ自体は、僕は否定しませんし、現に僕も、意思の力によってロルフィングを海外で学び、今があると思っています。

意思の力で、小さな自然であるこの身体ですら、まるで思いのままに変化させることができるし、この身体による様々な制約も、テクノジーによって超えていくことさえもできます。

人間は自然、身体を征服して、コントロール下に置いたかのようにも見えます。

けど、それは本当にそうなのでしょうか?

ロルフィングを学んで一番良かったと思うのが、身体という自然に「畏敬の念」を抱くようになったということです。(と同時に、言葉が出ないほどの感動的な体験も、身体を通して得ることができるようになりました。)

熟練した素晴らしい山登りは、優れた意思の強さを持ち、そしてテクノロジーのかつてない発展による恩恵を上手に利用することができ、昔に比べると、どんな山でも、どんなルートでも自由に登っていくことができるようになったと思います。でも、そんな山登りは、登れば登るほどに、「自分がこの自然を制覇した、征服した」と思うのではなく、さらにその上に広がる空、そしてそこから見える大地を目の前にして、「自然の一部としての自分」に気づくのだと思います。山という自然に登る行為は、征服、コントロールしたい欲求を満たすものではなく、「かつて、それと一つであった時間があった」という、確かな感覚に触れるものなんだと思います。(そうでなければ、同じ山を何度も何度も繰り返し登ることはないはずです。)

だからこそ、自然に本当に近い人というのは、自然と共に生きて、そこに尊敬と感謝と、畏れも同時に持ち備えています。

僕はなるべくなら、身体という小さな自然に近い人でありたいと思っています。それは、身体の不思議さ、未知さに対してオープンであること。身体そのものに、知性よりも優れた「智慧」が備わっているということを信じていることです。(そのためには、真摯に身体のことを学び続けることも忘れてはいけません。)

世界中の尊敬できるセラピストは、みな身体に近い人でした。そして、それは触れられた瞬間にわかります。その瞬間から、「何をどうしているんだろう?」、「この反応はなぜ起こるんだろう?」などと、頭で何かを把握しようとすることはなく、ただただ自分の身体をその人に「明け渡す」という感じになりました。

情報化時代に生きている私たちは、油断するとすぐに頭が「働き過ぎて」しまいます。起きていることを、すべて頭で把握して、理解して、そして自分の意思によって、行動を選択しているということを、あまりにも無自覚に信じ過ぎています。(それは科学の分野でも、「錯覚である」ということが明らかになってきています。)

頭が身体をコントロールし過ぎてしまうのを、少し身体の可能性を信じて、手放してあげるということ。

そうすることで、自分の頭では想像し得なかったことを、その身体が見せてくれるようになるのです。

「あとはこの身体をよろしくお願いします。」

「わかりました。大切に扱わせていただきますが、あくまでそれを可能にするのは、この身体そのものであって、僕の力ではありません。私はそれに従って、するべきことを適切にするだけです。」

僕がセラピストに身体を触れてもらう時には、自分の身体をコントロールすることを明け渡し、セラピストに身体をゆだねます。そうすると、セラピストも大切に僕の身体を扱ってくれますが、そのセッション自体は、身体という自然そのものが持っている「智慧」によってガイドされていくものなのです。セラピスト側も、「治したい」という相手の身体をコントロールすることを明け渡しているのです。

セッションをする側とされる側とが、「同じ場所」に立ち、お互いにコントロールしたいという欲求を「明け渡す」ということ。

そうすることで、身体という小さな自然が、その二人に必要なことを引き起こしてくれて、それは時に感動的ですらあるのです。

先のキャッチコピーですが、それを突き詰めれば突き詰めるほどに、"Let yourself go." 、または "Get out of yourself." に至るような気がします。(それを踏まえての、このキャッチコピーだとしたら、僕は脱帽ですね。)

Eさんの感想の最後にあるロルフィングの説明ですが、「よけいなことをしなくなる身体」というのも、いい表現だなと思います。身体自体が「賢い」のですから、僕らはそれに「おまかせ」しているだけでいいのだと思います。

さて、次回は3回目のセッションになります。Eさんの身体はどんな変化を見せてくれるのでしょうか。僕はよけいなことをせず、身体が導いてくれるままにセッションできたらと思います。




Yuta

( Posted at:2017年2月22日 )